映画評「ビッグ・フィッシュ」(2003年/アメリカ)

2003年/アメリカ/125分 監督:ティム・バートン 出演:ユアン・マクレガー/アルバート・フィニー/ビリー・クラダップ/ヘレナ・ボナム=カーター

決して釣れない魚がいる。逃げていく魚のようで、手に入れたはずだけど。それは逃げていく。後に残るのは物語だけだ。大きな魚だけどそれは信用してはもらえず。それを聞く人間は、その物語を疑う。しかし、物語は共有されていき、そこから新しい物語が始まっていく。大人が語るおとぎ話は、子供にとって現実でもあり、認識でもある。自我が芽生えて大人になってきてから、子供は大人の語るおとぎ話を「うそ」だと気づく。このプロセスを映画のストーリーに入れれば、成長物語ができる。この映画で成功しているのは、「うそ」だと気づかせると同時に「本当」だと認識し、それが家族愛に結びついたことだ。そして、アメリカならではの、害のないほらふき話がいたるところにちりばめられて、イメージの芳醇な部分を楽しめる。さらに、魔女、巨人、スペクターの詩人(プシェミ、いい味出してる)など、いたる所に空想世界の住人がまぎれこむ。ティム・バートンならではのねじまがった描写も入り、魅力的な映画になった。ビリー・クラダップが素晴らしい。魅力的なほら話にひきこまれていく主人公の心の揺れ動きを分からせる演技が本当に上手だ。この映画では一風変わった人間像の認識が、ストーリーになっている。一般論で言えば、その人のことを好きになる時は、現実の人間像が強く出るはず。まず、現実から入って、その周囲の枝のように広がるほら話の部分を少しだけ理解するのではないか。でもこの映画の父親の場合、現実よりも芳醇なほら話のほうが主体になっている。一人、空想のアマゾン大密林だ。だから主人公は、ほら話の中に入りこむしかない。「お父さまの頭で考えるのよ」そして、まず、ほら話の方を好きになるのだ。で、実際の父親を探そうとすると、父親ははるか遠くにいってしまい距離が離れてほら話からも離れて、その結果、分かる。ほら話自身も父親なのだと。ほら話と現実の話。最後に物語は、つながった。最後に主人公は、本当の父の人間像を認識できたのではないか。もちろん、父の人間像だけではなくて、主人公もそうだし、私たちもそうだ。物事にはさまざまな側面がある。想像しながら、夢を語りながら人々は生きている。夢や想像が伴って、はじめて人間ができているという認識。簡単に一言で言えばそうなるけど、映画として成立させるには相当の努力だ。クライマックスに父と子の対話を持っていった。そして立場は逆転した。そして継承された。人間賛歌へと続く、理想的な終わり方だった。最後のナレーションは、とてもいい。