
深夜、コピー機で、自分を(短編小説)
朝の光がまだ窓辺に届かぬ頃、橘悠真はアラームの音で目を覚ました。いつものように無言でそれを止め、いつものように布団をたたみ、歯を磨き、顔を洗い、トーストとインスタントコーヒーの朝食をとった。ネクタイを締める手つきも、駅へと向かう足取りも、全てが昨日の再演だった。通勤電車では、スマホを取り出すでもなく、車窓の風景にも目を向けず、ただ時間が過ぎるのを待つ。職場に着くと、予想通りに予想された業務が待っていた。上司の小言も同僚の世間話も録音のように繰り返される。昼食時になれば、迷うことなく「Aランチ、しょうが焼き定食」を頼む。味も盛り付けも、前週と寸分違わぬ姿で出現する。夕方、定時になると席を立ち、誰よりも目立たずに退社する。満員電車の中で大量のコピーと共に帰る。コピーのような部屋でコピーのような食事や排泄や睡眠をして、コピーのような夢をみる。そして、朝になる。無駄を削ぎ落としたような一日。その端正な反復の中で、悠真は一つの「工程」として生きていた。
月曜日の午前10時は、部内定例会議の時間だった。議題は毎度似たようなもので、進捗確認と連絡事項の共有。それは議論というよりも、儀式に近かった。上司の言葉に相槌を打ち、予定通りに終了する、予測可能な30分。悠真はその定例会議の席に、何年も座り続けていた。入社当初は、本当にイライラした。自分の目標達成もままならない状況なのに、なぜ一言も発することなく座り続けなければならないのか。しかし、何年かすると、それがあきらめに変わった。ただその空虚な時間にいることこそが、会社員である自分の使命なのだ。それでも、ふと思うことがあった。これは、本当に「生きている」と言えるのだろうか?誰かが作った人生の「原稿」を、ただコピーして繰り返しているだけではないか。昨日の延長線上に今日があり、それをまたコピーして明日に貼りつける。そんな生き方に、自分の足跡はあるのだろうかと。夜中にふと目が覚めることがある。自分は元々、どういう人間だったのだろう。

その日も、定例会議の準備としてアジェンダを用意していた。これもまた、毎週のルーチンのひとつ。誰も気にとめない仕事。原稿をセットし、スタートボタンを押す。ところが
「・・・あれ?」
機械が反応しない。小さなエラー音が一度鳴ったきり、ディスプレイには見慣れないメッセージが表示されていた。
システムエラー:再起動が必要です
悠真は軽く眉をひそめ、リセットボタンを押した。沈黙。もう一度押す。変化なし。
「・・・頼むから、動いてくれよ」
ささやくように言ったその声に、どこか焦りがにじんでいた。時間が迫っている。あと数分で会議が始まる。しかし、機械はかたくなに沈黙を守っていた。今この瞬間だけ、なぜ。
「ふざけるなよ・・・!」
思わず、悠真は機械の側面を平手で叩いた。音は鳴ったが、動かない。焦燥と苛立ちが混じり、堰を切ったように声が漏れた。
「さっさとやれよ!簡単だろ?同じ物を何も考えずに複製すればいいだけだろ!」
なぜかはらわたが煮えくりかえっていた。それは、コピー機に向けた怒りというよりも、同じ毎日を繰り返す自分自身への心の叫びのようでもあった。無意識に、機械を足で蹴飛ばしていた。鈍い音が室内に響く。誰かに見られていたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。ただ、蹴ったその瞬間、機械が低くうなり声を上げ、ディスプレイが再起動された。数秒後、何事もなかったかのように、紙が一枚ずつ吐き出されていく。アジェンダは、きちんと印刷されていた。
悠真は息を整えながら、その様子を見つめた。手に取った紙はほんのり温かく、鼓動があるかのようだった。コピーされたアジェンダを片手に、急いで会議室へと向かった。
その日の会議は、違った。
最初の議題を読み上げると、普段は黙って聞き流すだけの後輩が、ふいに手を挙げた。
「この点なんですが、ちょっと提案があって」
場が一瞬静まり返る。そして意外にも、隣の席の同僚がその案に乗った。さらに別の誰かが、自分の考えを付け加えた。いつもは沈黙に支配されるだけだった空間が、言葉で満たされていく。会議は予定時間を過ぎても終わらず、熱気が冷める気配もなかった。
会議後、皆が席を立ったあとも、悠真は一人その場に残り、テーブルの上に置かれたアジェンダを見つめていた。
あれ?これ、本当に自分が書いた内容だっただろうか?
そこには、記憶にない一文があった。それは議論のきっかけとなった提案であり、皆を動かした最初の火種だった。誰が書いたのか。なぜそれがコピーされたのか。自分の記憶違いなのか、それとも。

それ以降、悠真は誰よりも早く出社し、必ず自分でアジェンダを印刷した。誰かに頼まれたわけでも、命じられたわけでもない。ただ、蹴飛ばしたコピー機の奇妙な一件から、彼の中で何かが変わってきていた。
それ以降、コピー機は一度も不調を起こさなかった。古びた見た目のくせに、起動も早く、印刷も静かで、なにより印字された文字には、どこか熱のようなものが宿っていた。もちろん、紙にはただのインクしか載っていない。でもその内容は、いつも悠真の記憶よりも、少しだけ先を行っていた。
ある週のアジェンダには、こんな一文があった。
「現状維持に満足せず、変化を恐れない選択を」
そんな言葉、自分が書いた覚えはなかった。けれど、そのフレーズが載った会議では、普段寡黙な課長が
「実は、今の進め方に少し疑問があってな」
とつぶやいた。誰もが驚き、意見が次々と続いた。また別の日には、プロジェクトメンバーの個々に合わせたようなメモが添えられていた。
「新人教育に向いていると思います」
「リーダーとしての視点を持ってみては?」
「アクションの前に仮説を立てて確認しながら進めてみては?」
それらを受け取ったメンバーたちは、
「何か、考えてたこと、見透かされたみたいです」
などと苦笑しながら、実際に行動に移していった。不思議だったのは、誰一人としてそれに疑問を抱いていないことだ。むしろ全員が、その「ちょっと先の提案」を自然に受け入れ、それを起点に思考し、発言し、動きだしていた。
会議というものが、これほどまでに人を動かすものだっただろうかと、悠真は何度も考えた。そこにはもはや、以前のような「義務」や「形だけ」の空気はなかった。全員が自分の意志でその場に座り、相手の声に耳を傾け、自分の意見を語り、お互いを理解しながら、会社の未来を語っていた。
社内の雰囲気が変わった。
後回しにされていた企画が動き出し、他部署との連携も増えた。人事評価にも変化があり、「考えた人」「動いた人」が正当に評価されるようになった。
すでにオフィスの中では、コピー機の真実に気づく者も現れはじめていた。それでも、誰もコピー機のことには触れなかった。あれだけ使っているのに、誰もその不思議な効果について語らない。まるで「そこにある何か」を見て見ぬふりをしているようだった。悠真自身も、あえて口にはしなかった。ただ、ある日ふと、コピー機の側にたたずみながら思った。
「これは、誰かが、いや、何かが、おれたちを後押ししてくれてるのかもしれない」
その思いは、迷信ではなく、確信に近かった。

不思議なことは、悠真だけに起きたわけではなかった。
ある社員は、小説の原稿用紙を胸に会議を欠席し、数週間後に「新人賞に応募します」と言い残して退職した。ある者は、NPO立ち上げのプレゼンを会社で行い、そのまま出向という形で海外に旅立った。またある者は、長年出せなかった「告白の手紙」を印刷して意中の相手に手渡して、恋が実ったと笑っていた。
誰もが、心の奥にあった「もう一つの自分」を思い出し、それを現実にしはじめていた。
秋風が冷たさを帯びはじめたある日、昇進の内示が下りた。悠真は正式に「企画推進部チーフ」へと任命された。それは順当な結果だった。数字も成果も、チームの変化も、社内の誰もが認めていた。けれど、悠真の心には、どこか満たされない空白が残っていた。
おれは、本当に自分の力でここまで来たんだろうか?
彼は残業の手を休めた。深夜になっていた。彼はその答えを求めるように、静かにコピー機の前に立った。昇進を告げる辞令書を手に、それをセットする。ボタンに指をかける。静かな部屋に、機械が動き出す音だけが響いた。数秒後に吐き出された紙を、手に取る。
そこには、「辞令」ではなく、「辞表」が印字されていた。
心臓が跳ねる。目を凝らして読む。
このたび、私は会社を退職いたします。
これまで、与えられた枠の中で最大限の努力をしてきました。
けれど、今、私は枠の外に目を向けたい。
誰かの用意した道ではなく、自分自身の足で選んだ道を歩きたい。
世界を見たい。風に吹かれたい。知らない街で、知らない言葉を覚えてみたい。
そんな、当たり前の願いを、もう一度追いかけてみたいのです。
震える手で、その紙を持ちながら、悠真は椅子に腰を下ろした。
記憶の底から、忘れかけていた情景が浮かんでくる。大学時代。バックパック一つで世界を旅したいと思っていた。見知らぬ国の駅で、道に迷ってみたかった。屋台で見たこともない料理に驚いてみたかった。異国の誰かと、下手くそな英語で笑い合いたかった。だが就職を選び、道は一気に「整備された日常」へと収束した。夢は、人生の奥底にしまわれたままだった。いや、しまったのではない。忘れたふりをして、鍵をかけたのだ。その鍵を、今、このコピー機が開けてしまったのかもしれない。
悠真は、じっとコピー機を見つめていた。静かな夜。フロアに残っているのは彼一人。窓の外では街灯がまばたき、どこか遠くで車のクラクションが聞こえた。コピー機は、何事もないような顔でそこにたたずんでいた。灰色のボディ、使い古されたボタン、無機質なディスプレイ。何度も見たはずのその姿が、今夜は生き物のように感じられた。
悠真は、そっと原稿台のカバーを上げた。ガラスの面が、青白い蛍光灯に照らされている。何をするでもなく、彼はそこに手をかざしてみた。指の影が淡く落ち、皮膚の皺まで照らし出される。それから、ふと、思いついたようにネクタイをゆるめ、ワイシャツの第一ボタンをはずした。静かに腰をかがめ、顔を近づけていく。ガラスの冷たさが額に触れた。心臓の音が、自分でもわかるくらい大きく響いていた。
「おれは、誰なんだろうな」
つぶやきは、機械の中へと吸いこまれていった。コピー機のカバーをそっと後頭部に下ろす。棺の蓋を閉めるように。そして、右手でスタートボタンを押す。ウィーン、という起動音が、やけに長く耳に残る。ガラスの下を、白い光がスーッと移動していく。顔をなぞられるような、柔らかい光。光が動くたびに、自分の記憶の断片がひとつずつ浮かび上がってくる気がした。
大学時代の海。父と口論した夜。好きだった人の背中。駅のベンチで一人きりだった日曜の午後。全てが、今この瞬間、コピーされているような気がした。やがて光が止まり、機械が低くうなった。下のトレイから、一枚の紙が排出される音がした。悠真はゆっくりと紙を手に取った。
そこには、見たことのない自分の顔があった。
無精髭を生やし、少し日焼けして、どこか旅人のような顔つきだった。でもたしかに、それは自分だった。自分の中に、ずっと眠っていた「本当の顔」だった。
そして何より、笑っていた。
口元に、目元に、嘘のない微笑みが浮かんでいた。悠真は、しばらくその紙を見つめていた。偉人の肖像画でも見るかのように。
「そうか」
やっとのことで、一言だけつぶやいた。それから静かに紙を鞄にしまい、ネクタイを外し、机に戻って整理を始めた。
辞表を一枚、そっと上司の机に置く。
何も添えず、ただそれだけ。
そして最後に、もう一度だけコピー機の前に立つ。手の平をそっと機械に添え、声にもならない声で、つぶやいた。
「ありがとう。おれを写してくれて」
コピー機は何も答えない。今、自分の足で、たった一つの「原本」として歩きだす。彼は振り返らず、オフィスの扉を開けた。
夜風がスーツの裾を揺らし、肌寒くも、暖かい。遠くで夜明けの気配がした。
