映画評「アーティスト」(2011年/フランス)

2011年/フランス/101分 監督・脚本・編集:ミシェル・アザナヴィシウス 撮影:ギョーム・シフマン 音楽:ルドヴィック・ブールス 出演:ジャン・デュジャルダン/ベレニス・ベジョ/ジェームズ・クロムウェル/ペネロープ・アン・ミラー

昔のテレビゲームで「風のリグレット」という音しか出ないゲームが売られていたが、それと同じくらいの発想の自由がある。映像的にはモノクロの芸術性を極限までこだわりぬいているわけではなく、平凡な出来だ。当時のカメラと比較すると驚くほど画面がきれいに写っているが、カラーをそのまま白黒にしただけの安易な物だ。映像美への愛ではなく、この映画ではもう少し本質的な愛情にあふれている。モノクロよりも、1.33:1のスクリーン比率の方が効果的だ。左右の情報量が減るので画面に一点集中してのめりこんでしまった。突然、犬がほえたりコップが机にゴトリと落ちたり、トーキーになる場面が演出的には面白い。音がついてワクワクするはずが、主人公にとっては悪夢になっている。後半、質屋の前にたたずむ主人公に対して警官がなにか言うが、そこにはセリフもなく口のアップが続く。ただ、そこで受けた苦痛は共感できる。これも、サイレント的な演出で面白い。最後にトーキーになった時のダンスも、それまで制限されていた情報が解放された時に感じる楽しさに満ちあふれている。こういう、今の時代だからこそ作れる演出が新鮮だった。輝きを失った映画スターが落ちぶれていく感覚がリアルだ。誇り高き男が行き止まる。あおった酒が苦い。「助けてくれ!」と叫びたくなる。映画の中では女に別れを伝えていたが、砂に埋もれていく腕が、自分自身のようで気味が悪い。私のような、負けがつづいた中年男性にとって、この感覚には非常に共感を覚える。男の苦悩は、色や声がなくても、体験したことがある人間が見るならば、これで十分だ。苦悩の色は、モノクロでも再現可能だ。現実は甘くはないが、この映画では救いがある。予定調和なシナリオというよりも、映画そのものが彼を助けたような気がする。助けてもらう相手は天使ではなくて最前線の映画スターだ。ダンスによって生まれた結びつきが、ダンスによってきちんと映画として結びつく。しかもトーキーの性質を生かした芸術的な表現だ。自分の才能で自分を救っている面もある。トーキーになったことにより表現に幅ができたことを自分で証明している。演技は時代遅れになったのかもしれないが、魅力ある才能は彼の中でまだ眠っていたのだ。普段の流れるような優雅な動きと、サイレント映画の中でのメリハリの効いた硬い動きを演じわけたジャン・デュジャルダンは、なかなかの役者だ。時代に乗り遅れた役者役というのは、演じるのが難しそうだ。野心的で元気のある演技を見ていると、こちらも力が入る。彼が火事で抱えていたフィルムが、彼女と踊っていたシーンだったのが、鳥肌が立つくらい感動した。なぜだか、「あっ!」と声を上げてしまいそうだった。フィルムそのものへの愛情がある。映画に携わる人にとっての思い出は、そのまま1コマ1コマであるのだろう。動きがあって生き生きとした思い出だ。そのまま理想であり現実だ。たとえトーキーでも、カラーでも、3Dでも、アナログでも、デジタルでも、娯楽でも、芸術でも、基本はコマ単位の表現手法だ。本質的な部分に触れているような気がする。最後、サイレントであることをやめる。トーキーでのダンス。そして映画撮影の始まる決定的瞬間。また一つの夢が始まるかのようなワクワクする瞬間で爽やかな後味を残す。登場人物が主役なのではなく、映画そのものが主役であるかのような。映画そのものが生き物のように実体がある。映画への愛がそのまま生命を得たかのような魔法のような感覚。過去を描いているはずなのに、未来への希望を感じる。