
短編小説「東京影タンゴ倶楽部」 4(全5回)
第4章
ダンスホールが暗闇に包まれて、フッと照明がつくと、そこは巨大な劇場。シャンデリアが放つ幻想的な光が、天井から滝のように降り注いでいた。客席には数千の観客が固唾を呑んで見守り、その熱気が会場全体を包みこんでいた。舞台上には最先端の照明装置が配され、光と影が交錯する神秘的な空間が創り出されていた。マスタータンゴは舞台袖で、荘厳な声で宣言した。
「今宵、伝説が爆誕するぞ!」
巨大な黒い霧が舞台上に渦巻き、審査員たちが現れた。彼らは最前列の豪華な特別席に着席し「影ダンス審査委員会」の金色のバッジを胸に輝かせていた。
「演目を開始せよ」
審査員長の声が劇場中に響き渡った。
「本日の審査基準はコンテンポラリーとブレイクダンスの融合芸術である」
マスタータンゴは宝石で装飾された懐中時計を掲げて開くと、その内部から放たれた金色の光線が天井に設置された万華鏡のような装置に反射し、舞台全体が万色の光で満たされた。客席からは感嘆の声が上がった。
「2つの世界の境界が交わるこの神聖なる時空間で」
マスタータンゴの声が劇場に響き渡った。
「我々の魂の表現を捧げます!」
教授は影の民たちに合図を送った。シャバババッと彼らは完璧な振付通りに舞台の各位置に散らばり、息を呑むような造形美を作り出した。一人、ポーズを間違えた影がいたが、隣の影にそっと修正された。モヤちゃんは舞台中央のスポットライトを浴び、その姿は半透明になっていたが、放つオーラは劇場全体を支配していた。オーケストラピットから壮大な音楽が湧き上がった。クラシカルなタンゴの旋律から始まり、徐々に現代的なヒップホップのビートが重なり合い、前代未聞の音楽世界が展開されていった。影の民たちの踊りが始まった。教授がリードし、流れるようなタンゴのステップを踏むと、影たちはそれに呼応し、床に吸い付くような足運びで情熱的な軌跡を描いた。モヤちゃんはダイナミックなヒップホップの動きで舞台にエネルギーを注入し、ブレイクダンス炸裂!バク転したかと思ったら、途中で謎のヨガポーズを決めて観客の魂を持っていった。天井からは特殊効果の光の粒子が降り注ぎ、彼らのしなやかな動きに合わせて、生きているかのように輝き、消えていった。特大LEDスクリーンには彼らの動きが複製され、万華鏡のように複雑で美しい映像が映し出された。一部の影は、重力を感じさせない高度なアクロバティックな技を披露し、観客から抑えきれない興奮の拍手が沸き起こった。彼らの動きは数百の照明効果と完璧に同期し、光と影が生命を持ったように舞台空間を自在に変化させていった。
審査員たちは最初こそ冷静な表情を保っていたが、踊りが進むにつれて、その表情が驚愕と感動へと変わっていった。一人の審査員は思わず立ち上がり、隣の審査員に興奮して語りかけていた。別の審査員は高級カメラを取り出し、歴史的瞬間を記録しはじめた。パフォーマンスのクライマックスに向けて、モヤちゃんがソロを披露しはじめた。彼女の動きは重力を無視しているかのようで、同時に深い感情表現に満ちていた。彼女の周りには特殊照明が作り出す光の渦が発生し、舞台全体が別次元へと変貌していった。観客席からは自然と
「ブラボー!」
という声が上がり、中には感動で涙を流す者もいた。涼子はモヤちゃんに寄り添いながら踊り、観客には聞こえないボリュームで語りかけた。
「モヤちゃん、思い出して。君、ただの大学生よ」
モヤちゃんは圧倒的な技術で宙を舞いながら切なげに答えた。
「でも涼子・・・この舞台、魔法。ここでの私は純粋な表現そのもの・・・学業の重圧もキャリアの不安もない・・・」
「いいかモヤちゃん、帰ったら芸術史のレポート提出だぞ」
と教授が余計な一言。
「うわああああああああああ!」
モヤちゃんの体が一瞬プルプル震えたが、教授が華麗なリフトで救出。観客からは割れんばかりの歓声。
「人間世界にも素晴らしい芸術がある」
教授は完璧なパ・ド・ドゥを披露しながら言った。
「ここでの経験を持って戻れば、君は芸術の新境地を開拓できる。それに人間世界には感動を分かち合う仲間と、君の才能を待つ観客がいる」
モヤちゃんの動きが一瞬揺らいだ。客席最前列でカメラのフラッシュが光った。
「先生。未来が怖いです。特に般教の数学のテストと、卒業後の不確かな道が」
「なぜ、一般教養で数学なんか取ったんだ。大丈夫だ。私たちがいる。大学生活は孤独な旅ではない。ちゃんとテスト前の補講もしてやる」

涼子も加わり、3人は完璧な三位一体の動きを見せた。教授と涼子はモヤちゃんの手を取り、息を呑むような高度なリフトを決めた。客席から歓声が上がる。舞台装置が変化し、巨大な光の翼が3人の背後に現れた。周囲の影の民たちも呼応し、舞台全体が生命体のように脈動しはじめた。突如、劇場の天井が開き、満天の星空と巨大な満月が露わになった。実際には最新のプロジェクションマッピング技術だったが、観客はその境界を見分けることができなかった。舞台全体が金色と銀色の光のハーモニーに包まれ、時間が凍結したかのような美しさが広がった。
感動のあまり黒い涙を流しながら、影ダンス審査委員全員が席から立ち上がり、熱狂的な拍手を送った。その音は雷鳴のように劇場中に響き渡り、観客全員がスタンディングオベーションに参加した。
「判決を下す」
審査員長がステージに登場し、大きな声で宣言した。
「影の民たちは真の踊りの精神を学んだ。彼らはこの世界に留まることを許される」
歓声が上がった。影の民たちは踊りながら喜びを表現した。彼らの体は以前よりも実体感を増し、より鮮明になっていた。中には感極まって小さなハイタッチを交わす影もいた。
「そして」
と審査委員長が腕を上げてモヤちゃんを指差した。
「この人間の少女は特待生として影の世界に招待することにする」
ザワザワザワ!会場がどよめく。ステージ奥の暗闇から鈍い音が響き、ギギギギイィッとなにかがきしむような、重々しい金属音が劇場全体を包みこみ、暗闇がうごめき、ステージの奥の黒い幕がゆっくりと左右に開かれていく。現れたのは、想像を絶するほど巨大な姿見だった。その額縁は黒曜石のように深く艶やかな黒で、複雑な模様が銀で刻まれている。古代遺跡から発掘された魔法の鏡のよう。鏡面は闇夜のように黒く、その闇の中央に、ぼんやりとモヤちゃんの姿が浮かび上がっていた。輪郭は霞んでいて、幽霊のように半透明。闇に溶けこむその姿は、この世のものとは思えないほどはかなげだ。劇場の照明は落とされ、唯一の光源であるスポットライトが姿見を照らし出す。その光は鏡面に反射し、無数の光の粒となって劇場全体に散らばり、幻想的な雰囲気を作り出していた。観客たちは息を殺し、その異様な光景に固唾を呑んで見守っていた。審査委員長が鏡面を指差した。
「さあ、そのまま姿見の中へ。この闇の中を進め。影の世界にようこそ。歓迎しよう」
モヤちゃんはぼんやりとした表情で教授と涼子を見た。
「戻ってきて!」
涼子は手を伸ばした。
「まだTikTokのダンスチャレンジ、一緒にやってないじゃん!」
モヤちゃんは涼子の手を取った。
「そ、そうだ。TikTokチャレンジ。私、やっぱ、人間世界に戻りたいっス。インスタとTikTokが恋しい」
「シャドウムーンウォークは、どうなった?闇の世界に行けばシャドウムーンウォークやりたい放題だ。おまえ、この前は、やりたそうにしてたじゃないか」
審査委員長がうろたえる。モヤちゃんが丸メガネをクイっと上げてケラケラ笑う。
「だって、月の裏側でしょ?真っ暗で、誰にも見えないじゃん。それに、暗すぎて自撮りも無理だから、どこにもバズれないし。自分でも見れないから、もう、なんのために踊ってんのかって感じ。え?え?ちょっと待って!ねえねえ。月の裏側って、もしかして空気ないの?」
「う、うむ。空気はないが・・・」
「じゃあ!音も聞こえないってことじゃん!なにも見えず、音も聞こえず、1人で踊るってこと?まだ私、その域には達してないから、50年後にまた誘ってね!」
「まだ少女には早すぎたのか・・・」
審査委員長がガックリと肩を落とす。巨大な黒い霧が舞台上に渦巻き、審査員たちが消えていった。
「今よ!マスタータンゴさん!タイムキーパーを!」
涼子が叫ぶ。マスタータンゴは宝石で装飾された懐中時計を取り出し、モヤちゃんに差し出した。
「これを持って。そして、心の中で最も大切な記憶を思い浮かべるのです。たとえば、初めて食べたアイスクリームの味とか」
モヤちゃんは恐る恐る懐中時計を受け取った。彼女は目を閉じ、なにかを思い浮かべた。
「ヒップホップを始めた日・・・先生のだるいゼミ・・・涼子との出会い・・・あと、先月食べた野菜マシマシラーメンとタピオカミルクティー・・・」
懐中時計が明るく輝き、モヤちゃんの体を金色の光が包みこんだ。彼女の姿は徐々に実体化しはじめ、透明だった部分が戻っていった。姿見で自分を見ると、自分の影がしっかりと床に映っていた。
「戻った・・・?ありがとう涼子!あやうく私、やべーとこに連れ去られちゃうところだった」
「モヤちゃん!良かった!」
「ねえ・・・スマホ、どこ?」
「これよ、モヤちゃん」
涼子がスマホを差し出す。あわててモヤちゃんがLINEをチェック。
「ヤバイヤバイヤバイ!すっごい未読・・・」
「おかえり」
教授は微笑んだ。
「テスト勉強、明日から始めような」
「うわああああああああああ!」
影の民たちは歓声を上げ、再び踊りはじめた。今度の踊りは純粋な喜びに満ちていた。数人の影は、モヤちゃんが教えたダンスムーブの難しいバリエーションに挑戦し、見事に成功させていた。
「これからは」
マスタータンゴは言った。
「我々影の民は、人間の踊りから学ぶだけでなく、独自の踊りを創り出していきます。そして時々、人間世界にも踊りを教えに行くでしょう。シャドウ・ダンス・アカデミーの開校です」
「そして私たちはいつでも13階に来られるのね?」
涼子はたずねた。
「入場料とか、かからない?」
「もちろん」
マスタータンゴは微笑んだ。
「ただし、新月の夜を除いて。あの日は我々のカラオケ大会があるのでね」
モヤちゃんは深く息を吸いこんだ。
「人間に戻ると、体が重く感じるっス。でも、この経験は忘れない。影の世界で学んだダンスを、人間世界でも踊りたい。TikTokでバズるかも!」
教授は、涼子とモヤちゃんに感謝の言葉を述べた。
「君たちのおかげで、素晴らしい経験ができました」
「いえ、先生のおかげです」
涼子が断言した。涼子とモヤちゃんとビルを出て、教授は朝日が昇る御茶ノ水の街を眺めた。疲労困憊だが、すがすがしい気分だった。彼の心には、新しい研究テーマが芽生えていた。
