
映画評「ヒューゴの不思議な発明」(2011年/アメリカ)
2011年/アメリカ/126分 監督:マーティン・スコセッシ 撮影:ロバート・リチャードソン 原作:ブライアン・セルズニック 脚本:ジョン・ローガン 出演:エイサ・バターフィールド/クロエ・グレース・モレッツ/ベン・キングズレー/ヘレン・マックロリー/サシャ・バロン・コーエン
見たことのない映像だった。3Dなのだから当然なのかもしれないが、遠近感が1カットごとに強調されている。遠近法と、遠近感。立体感。夢の中で浮かび上がるようななにかの発明。新奇なものとしての3Dではなく、映画の撮影技術としてみても新鮮な表現となっている。スコセッシ、なにか気づいたのか。スコセッシの不思議な発明である。人々や犬がうごめき、建物や時計の機械がごつごつとせり出し、駅というものは巨大であるためにまさに遠近感の魅力を引き出しやすいロケーションだ。小物に至るまで全てが美しく、はっきりとした輪郭で描かれていて、別の世界を訪れたような気分にさせられた。撮影監督のロバート・リチャードソンはこの映画で3度目のアカデミー撮影賞。これは当然だ。55年生まれにして、この映像感覚は、すごい。機械人形のデザインが非常に美しい。古風でありながら人間らしい表情で人間らしい動きをする機械だ。この存在感は完全に役者そのものだった。冒頭から主人公が駅を動き回る。さらに駅の公安員からの逃走がはじまり、この映画のセットの巨大さに驚く。駅そのものが、完全にこの映画のために作りこまれている。ほとんどテーマパークのようだ。この完全なる世界観。この駅が本当に実在するかのようだ。落ち着いていて、温かみがある。いつまでもこの駅の中を眺めていたい気分にさせられた。この新鮮な映像体験の舞台となるのは、1930年代のパリ。イギリス人が中心に登場しているので、どこか別の世界のようだ。テーマとなるのは映画への愛。サイレント映画へのオマージュだ。そして主人公は少年だ。主演はエイサ・バターフィールド。駅構内を歩く時の心細さ。身寄りのない孤独感が身に迫り応援したくなる。助演はクロエ・グレース・モレッツ。「キック・アス」の、あの少女だ。本でしか味わったことのない冒険へ踏みだしていくワクワク感。彼女の好奇心旺盛な演技が、見ている私と共に物語を加速させていく。2人とも大人顔負けの演技というより、いかにも子供らしい演技だ。無理やりな笑顔ではなく、喜怒哀楽もわざとらしくない。子役的な子役の演技ではなく、上から目線の演技指導を受けている感じではなく、自分のアイデアで自由に演じていたように見える。背伸びしないで自分の身の丈にあった、今しかできない演技をしていた。2人とも今後が楽しみな役者だ。最新の技術の対象が、ノスタルジーであり、子供である。撮り方が優しい。優しさが前面に出ている。この監督が一番撮りたかったのは、最後に劇場で演説するシーンだったような気がする。映画館こそ夢の世界。こういう発想で生きてきた映画人の喜びのかけらを見せてもらったような気がする。駅構内は大人の世界であり、主人公にとっては外国。駅という王国の中で完全に異邦人だ。時計盤からのぞき見る世界は大人の世界。そこで時計のゼンマイを巻き、機械人形の修理をする。大なり小なり、その仕組みは機械仕掛けである。機械の中に人生があり、思い出があり、夢がある。時計が動いているかぎり、自分の存在は保証され、機械人形を直すことで父との結びつきは強くなる。主人公は小さな歯車のようだ。この小さな歯車は、壊れた人間を直そうとする。まずはその機械の製造工程を調べに図書館に行き、その生みだした数々の夢の製品に圧倒される。その機械は壊れているかもしれないし、時代遅れであるかもしれない。もしかしたら、永遠に見つかることはない部品でできているのかもしれない。機械人形を復活させたハート型の鍵にあたるものはなにか。自ら生みだした夢の製品によって、その機械は修理されていく。その機械は、作りだすだけではなく、作る工程において救いがあり、作る工程において自分をメンテナンスしていく。作った製品で自分の存在が保証され、自分と社会の結びつきが強くなる。壊れて動かなくなったとしても、どこか動いていないだろうか。重要な部分が今も生きていないだろうか。壊れた機械は、自分の生みだした製品に触れることで、自分を直していく、直されていく。壊れた機械を直すのが、手動式の映写機だ。小さな機械から大きな産業へ。映画産業そのものも巨大化してきた。主人公の動かす時計のような巨大な機械の中で、機械人形のように精巧なカメラを回している映画人たち。映画人たち。映画人たち。しかし、そもそもの生みだす根源は、小さな歯車のような人間の想像力だ。小さな歯車から大きな歯車へ。大きな歯車から大きな運動へ。パリの町並みを動かすのは、主人公を動かすのは、映画人を動かすのは、その、そもそもの巨大な流れを生みだすのは・・・。私がもしも機械人形だとして、ハート型の鍵のようなこの映画を差しこまれたとして、出てきたものは、このような散文であり、満足の溜息であった。