
映画評「フィッシャー・キング」(1991年/アメリカ)
1991年/アメリカ/137分 監督:テリー・ギリアム 製作:デブラ・ヒル 脚本:リチャード・ラグラヴェネーズ 音楽:ジョージ・フェントン 出演:ロビン・ウィリアムズ/ジェフ・ブリッジス/マーセデス・ルール/アマンダ・プラマー
物の見方というのは変わってくるもので、20年ほど前に見たときよりも、面白く感じた。行き場をなくした感覚というものは、男の場合よく持つものだし、私も同じような気分になったこともある。都会に住んでいる場合、そこには目的をもって通りを急ぐ人も多いし、確固たる目的のために存在している場所も多い。どこにも用がなく、目的もない私は、そこにいるとなんとなく取り残された気分にもなる。この映画の登場人物も、大都会をさすらっている。なんだか共感してしまう。途中で同じような感じの女性も登場してくる。もう、そこまで来ると、なぜだか他人事ではなくなってくる。深夜で疲れきっているのに画面の中に引きこまれていくのを感じた。ストーリー展開はオーソドックスな巻きこまれ型。救出されて巻きこまれ、その後の聖杯探しに巻きこまれていく。しかし、そもそもの発端は主人公が彼を巻きこんでいたことに気づく。因果応報である。ニューヨークと聖杯は、その存在の対比が面白い。全編に渡りオモチャのピノキオが登場するのもメタファーとして面白い。社内で歌い上げるシンガーもすごいインパクトだ。スカッとする。突然、舞踏会のようにみんなが踊るシーンがすごい。恋する者にとっては、周りの世界が舞踏会に見えるのかもしれないが、そのアイデアを映像で表現するためには、ものすごい体力と集中力と資金力が必要なはずだ。何百人もダンスしている。その中で恍惚の笑みを浮かべながらダンスパートナーを追い求める。流れるような照明。カメラワークも実にすばらしい。夢のあるシーンだ。想像力のなせる業である。これは映画だけに許された、動きや音や色彩の魔法だ。エキセントリックな視点だけではなく、絶望感の演出も印象的。後半は、パリ―が追われるシーンと、病院で怒鳴るジャックの、男同士の1人芝居の対決。どちらも心に迫り、甲乙つけがたい。ロビン・ウィリアムズとジェフ・ブリッジスの演技がすばらしいのは当然だが、それ以外で映画全体で表現しているなにかがある。これは体験として持っている者の発想だと思う。絶望の淵を見たことのある者たちが生み出した表現のような気がしてならない。テリー・ギリアム監督にとってはバロンと12モンキーズの間の作品だ。バロンで必ずしも成功を収めたとは言い難かった事実に、この映画の苦々しさと優しさが影響していたのだろうか。脚本はリチャード・ラグラヴェネーズ。2作目の脚本ということで、それまでの苦労を反映させたのだろうか。タクシードライバーの息子として生まれ、ニューヨーク市ブルックリン出身でニューヨーク大学という経歴が、この映画の脚本で非常によく活かされている。夢のようなラストシーンも素晴らしい。精神的に治ったのか治ってないのか、心の傷は癒えることはないかもしれないし、奇妙な癖も治らないかもしれない。しかし、2人のつながりは感じる。楽しげな雰囲気は感じる。過去の自分を否定せず、つらい思い出も忘れずに、しっかり生きる。絶望の淵にいても聖杯を手に、助け、助けられる。そして友情や、女性や、大切ななにかを獲得している。現実世界を舞台にした騎士道文学である。真の意味での大人のファンタジーである。
