第三章「星屑と運河」

騒がしさに引き寄せられたのか、もう1人、ふらりと公園に現れた男がいた。入口に停まっていたタクシーから現れたのは、50手前あたりの小太りの男。少し焦った様子で、あたりをキョロキョロと見回している。
「すいません。ここに、誰かいなかった?女性のお客さんがおれを呼んだんだけど、いないんだ。公園の入口にいるはずなんだけど・・・」
肉まんを頬張る彼女が不思議そうな顔をして自分を指差した。
「違う。君じゃないな。元々、そのお客さんとは、昔からの知り合いだからな。顔を見たらわかるよ」
「あっちの入口じゃないですか?」
ムーンスター・トモヤが公園の入口の逆方向を指差した。
「そうか。ここじゃないのかもな。ありがとう」
タクシーの運転手が少しイライラした様子で戻っていき、エンジンをかける音が響いた。車は走り去っていった。

演奏が再開されたが、古井戸ミチルの視線が、食べ物の袋に吸い寄せられるのを彼女は見逃さなかった。躊躇なく袋の中から湯気の立つ肉まんを取り出し、無言で古井戸に差し出した。その仕草には、言葉を超えた理解があった。
「また腹が鳴ってるぞ、爺さん」
彼女は言った。その声には不思議と温かみがあり、夜の冷気を少しだけ和らげるようだった。古井戸ミチルは戸惑いつつも、素直にその肉まんを受け取った。その手の震えは、寒さからだけではないように見えた。
「悪いな、いつもおなかが鳴るんだ」
彼は小さくつぶやいた。その声は夜の闇に溶けていった。
「食べなきゃ音も出ないでしょ」
古井戸ミチルは黙ってうなずき、肉まんにかぶりついた。その瞬間、彼の顔に満足の表情が広がった。熱い肉汁が口の中に広がり、体の芯から温まっていくのを感じた。食べ終わって演奏を始めると、彼の指はより力強くベースの弦を押さえ、より豊かな音色を奏でていた。

彼女はひたすら食べ続けながら目の前の即席セッションを眺めていた。パークギター・シンヤが、彼女に向かって声をかけた。
「おーい!そこの大食いファイターの方!居残り練習ですか?」
彼の声は公園中に響き渡り、遠くの木立に反響した。彼女は返事をする代わりに、もぐもぐとなにかを咀嚼し続けた。その表情は無心で、修行僧のようにも見えた。彼女の周りにはすでにいくつもの空き容器が散らばり、それらが月明かりを受けて薄ぼんやりと光っていた。
「ひょっとして、歌えないか?」
パークギター・シンヤは、さらに突拍子もないことを言い出した。その言葉は夜の静けさを切り裂くように鋭かった。彼女は熱々の肉まんを頬張りながら、少しだけ口を開いた。その息で立ち上る湯気が、彼女の顔を柔らかく包んでいた。
「胃袋と、肺活量なら自信あるわ」
その言葉に、パークギター・シンヤはニヤリと笑った。街灯の光が彼のメガネを一瞬だけ光らせた。
「十分すぎる」
彼の声には確信があった。夜風が一陣吹いた。
「さっきから、ずっと知らない曲しかないけど」
彼女は不思議そうに首を傾げた。その声は意外にも透明感があり、夜の公園に溶けこむようだった。
「みんな知らない。今、ここで作ってるから」
パークギター・シンヤは、こともなげに答えた。彼の足元では、アンプから漏れる光が不思議な影を作り出していた。
「そうか」
彼女は簡潔に答えると、差し出されたマイクを躊躇なく握りしめた。その指は力強く、長い爪が月明かりに青白く光った。いつの間にか、アンプにはマイクケーブルが繋がれていた。ケーブルは蛇のように地面を這い、機材同士を結びつけていた。
「あれ?マイクどっから出てきたの?」
ムーンスター・トモヤは、またしても現れた機材に目を丸くした。
「さっき、デカいやつが来て、ひっそりと置いていった」
古井戸ミチルが、遠い目をしながら言った。その目には、もはや驚きよりも諦めが宿っていた。
「一生懸命だね。見てたら歌いたくなった。歌ったことないけど」
彼女がムーンスター・トモヤを見て、マイクを通して話しかけた。話しかけられたムーンスター・トモヤは戸惑いの表情を浮かべながらも、同じ境遇の仲間にようやく出会えたような安心感で体を震わせた。

音楽が始まった。ギターの歪んだ音、重く唸るベース、たどたどしいドラム。その荒削りな音に乗せて、女は獣のような叫び声を上げた。その声は夜空を引き裂き、遠くの街の灯りさえも揺らすようだった。音程はめちゃくちゃだったけれど、なぜかそれは、紛れもない音楽として、全員に届いた。誰かの真似でもない、どこにもない、今ここで生まれたばかり。夜の闇そのものから湧き上がってくるような、原始的で力強い音楽だった。

パークギター・シンヤは曲の合間に、ふと彼女の方を見た。彼女の喉から発せられる声は、野生の獣のように荒々しく、それでいて不思議と公園の風景と溶け合うように広がっていった。食べ物の包み紙が風に舞い、彼女の周りを漂っている。
「おい、あんたの声、すげぇな。まるで・・・」
パークギター・シンヤは言葉を探すように空を見上げた。月明かりが彼の瞳に映りこみ、その目が銀色に輝いた。
「この公園の脇を流れてる運河みたいだ。表面は静かに見えるけど、水の底ではいろんなものが渦巻いてる。時々、予想もしない場所から湧き上がってくる」
彼女は歌うのを一瞬止め、不思議そうな顔でパークギター・シンヤを見た。肉まんの包み紙を手に握りしめたまま、少し首を傾げる。その仕草は、月明かりに照らされて影絵のように見えた。
「運河、ね・・・」
彼女の声は小さく、夜の闇に溶けこむようだった。
「運河は、カナル。流れるは、フロー。そんで・・・そうだ、今夜からあんたは、カナルフロウ・ナミだ!」
その言葉が夜空に放たれた瞬間、不思議と全員の演奏が一拍、停止した。その間、彼女の周りだけが異様に明るく照らされたように見えた。街灯の光がいつの間にか彼女だけを照らし出し、周囲が闇に沈んでいくような錯覚を覚えた。
「カナル・・・フロウ・・・」
彼女はその言葉を味わうように、ゆっくりと口の中で転がした。その唇からこぼれた言葉は、夜気の中で白い息と共に漂った。
「悪くないわ。カナルフロウ・ナミ、受け入れるよ」
彼女はかすかに微笑んだ。その表情は食べ物への貪欲さとは別の、なにか新しい輝きを持っていた。風が一陣吹き、彼女の髪を舞い上げる。その髪は月明かりを受けて水面のように揺らめいていた。カナルフロウ・ナミは静かにうなずいた。その動きは水面に落ちた小石が作る波紋のようにゆっくりと広がり、やがて彼女の全身がかすかに震えた。そして再び、彼女の喉から声があふれ出した。今度の声は、さらに深く、地下水脈から湧き上がってくるかのように、底知れぬ力を感じさせるものだった。

タクシーが公園の入口に止まり、運転手がまた戻ってきた。制服のネクタイは緩められ、シャツの袖はまくり上げられていた。
「見つからなかったのか?」
パークギター・シンヤが声をかけた。
「うん。電話しても出ないんだ。まいったな」
運転手は上着のポケットから取り出したタバコに火をつけ、ゆらゆらと立ち上る煙を見つめながら、4人の演奏に足を止めた。タバコの火が夜の闇の中で赤く点滅し、彼の疲れた顔を不規則に照らしていた。
「なんだ、演奏会か?」
彼は、興味なさそうに言った。その声は長い1日の疲れを含んでいるようだった。
「客待ちですか?おれらはまだ演奏中なので、まだ、タクシーは大丈夫ですよ」
パークギター・シンヤが、少し皮肉っぽく問い返した。彼の言葉は夜気の中で鋭く響いた。
「いや、今日はもう帰るよ。でもな」
タクシー運転手は、しばらくの間、ギターの音に耳を傾けていた。タバコの火が、夜の闇の中で赤く光っている。その明かりが彼の顔に不思議な陰影を作り出し、目元のしわを深く刻んでいた。
「・・・おれ。昔、バンドでキーボードやってたんだよ」
彼の言葉に、パークギター・シンヤは目を輝かせた。その目は街灯の光を反射して獣のように光った。
「え、マジで? それなら」
カナルフロウ・ナミが、先ほどから何度も出入りしているトラックの荷台を指さした。
「もうすぐあそこから来るよ」
暗闇から大柄の男がシンセサイザーをかついで現れた。
「なんでそんなになんでも出てくるんだよ、あのトラック」
ムーンスター・トモヤがため息をつく。大柄の男が2往復して機材を運びこむと、今度は無言で機材を設置した。遠くでは、夜行性の鳥が一声鳴いた。
「さあ。便利な夜だね」
タクシー運転手は少しだけ笑って、ゆっくりとした足取りで前に進む。彼の足跡は、露に濡れた地面に暗い痕跡を残していく。そして、シンセサイザーの前に腰を下ろした。
「コード覚えてるか、試してみるよ」
彼は探るように鍵盤をいくつか押さえた。乾いた電子音が、夜の静かな空気を震わせる。その音は不思議と星空に溶けこむように広がり、見上げれば無数の星が私たちの音楽に合わせて瞬いているようにさえ見えた。その音が、ベースとドラムに重なり、不思議なことに、それまでバラバラだったリズムを整え、ギターのメロディに深みを与えた。
「えっ、なにこれ。普通に、曲になってる」
ムーンスター・トモヤが、信じられないといった表情でつぶやいた。彼の声には驚きと喜びが混ざっていた。
「普通の曲じゃないよ」
パークギター・シンヤは言った。月明かりが彼の顔半分を照らし、残りは闇に沈んでいた。
「今夜だけの、おれたちの、誰にも届かない曲だ」
その言葉は、どこかはかなさを含んでいた。
「あなたのシンセは私たちを宇宙のどこかへ連れて行ってくれるようだった」
とカナルフロウ・ナミが言った。
「まるで・・・」
彼女の言葉は夜空に向かって放たれ、星々の間に溶けこんでいくようだった。
「スターダスト・ドライバー」
ムーンスター・トモヤは思わず口にした言葉だった。タクシー運転手が星々の間を駆け抜けるイメージが鮮明に浮かんだ。その姿は夜の公園の闇の中で、実際に光を放っているようにさえ見えた。
「スターダスト・ドライバー?」
タクシー運転手は少し驚いたように瞳を見開いた。その目に街灯の光が反射し、一瞬だけ星のように輝いた。
「だって、あなたはタクシードライバーで、でも鍵盤を弾くと宇宙の星屑みたいな音を出すから」
ムーンスター・トモヤは少し照れながら説明した。冷たい夜気が5人の頬を撫でていく。
「星屑を集めて走る運転手か」
古井戸ミチルが静かにうなずいた。彼の影は地面に長く伸び、月明かりの下で揺れていた。
「似合ってるぞ」
それを聞いたスターダスト・ドライバーはタバコを消すと、軽く肩をすくめた。彼の疲れた肩からなにかが解き放たれたように見えた。
「まあ、悪くない。気に入った」
彼の言葉には、久しく忘れていたなにかを思い出したような、かすかな喜びが混じっていた。

その時、カナルフロウ・ナミがふいに歌い出した。音程などまるで無視した、ただ感情の塊のような声だった。空っぽのようで、なにかで満ちている。その声は夜の闇を震わせ、公園の木々の葉さえも揺らしているように思えた。歌詞なんてない。ただ、叫びにも似たその声は、聴く者の心に直接なにかを訴えかけてくるようだった。それは言葉以前の、もっと原始的ななにかを呼び起こす声だった。

流れる 闇の中で
地下水脈 うねる心
見えない運河の底で
私は歌う
ああぁぁぁ・・・
星の光 届かない場所で
言葉にならない想いが
渦を巻く 渦を巻く
束縛されない 自由な水面
誰も知らない 私のリズム
この夜だけの 真実が
流れ出す 流れ出す
深層から 深層から
月の下で 揺れる影
五人の心が 一つになる
明日なんて 知らない
今だけの なみ
流れ出す 流れ出す
深層から 深層から

スターダスト・ドライバーは目を閉じて、音の波に身を委ねていた。その指は夢遊病者のように鍵盤の上を滑り、星々の音を紡ぎ出していく。ムーンスター・トモヤは、まだよくわからないリズムの中に、自分の手を委ねるように叩き続けた。スティックが叩く度に、小さな振動が地面を伝わってくる。古井戸ミチルは、なぜか少しだけ目を潤ませているように見えた。月明かりに照らされたその目は、透明な水滴のように光っていた。

夜中の2時過ぎ。冷たい風が頬を撫で、遠くからは虫の音がかすかに聞こえてくる。本来なら交わるはずのない5人が、理由もなく、ただ音を出し合っていた。彼らの周りには、不思議な空気が漂い、時間が止まったかのようだった。遠くの団地の灯りが、また1つ消えた。コンビニの明るい光だけが、遠くでぼんやりと夜を照らしている。その光は、彼らの存在を確かめるかのように、じっと見つめていた。

音楽はまだ終わらなかった。月が雲に隠れ、夜風がふっと止む。空気が凍りついたかのように静まり返り、それまでの音が一層鮮明に響き渡る。そこだけが、世界の真ん中みたいだった。5人の影が月明かりに長く伸び、1つに溶け合うように見えた。明日がどうなろうと、今この瞬間、彼らは確かにここにいて、この音楽を鳴らしていた。それだけが、この夜の真実だった。