
(短編小説)東京影タンゴ倶楽部 1(全5回)
第1章
御茶ノ水のおしゃれなカフェの窓際に3人の男女が座っている。1人はボブの白いワンピースを着た、日に焼けて快活なモヤちゃん。窓際にはストレートロングヘアの色白でスラリとした涼子。その正面にメガネをかけたスーツ姿の初老の男性。この男性こそが鈴木教授だった。彼は積み上がった論文の陰に隠れるように座っていた。論文の山は、彼を現実世界から隔てる防波堤のようだ。淡い黄色の照明の下、教授の顔には深い隈が刻まれ、かつての精悍さは見る影もなかった。彼の研究「現代日本における都市伝説の社会学的考察:カラスの囀りから影の踊りまで」は、今や学内では嘲笑の的。研究費は打ち切られ、学会からも相手にされず、孤独な研究の日々を送っていた。唯一の話し相手は涼子とモヤちゃんだけ。後期に入り、ゼミに来る学生は涼子とモヤちゃんだけになってしまった。彼女たちは教授にとって最後の希望だった。
涼子は冷たくなったラテを人生の残り時間を計る砂時計のように見つめていた。かつてハートだったラテアートはさらに溶けていき、醜い染みへと変わっていく。彼女の大学生活も、このラテアートのように、空想と現実の乖離に蝕まれていた。
「また来た」
涼子はため息とともに、窓の外の景色に視線を移した。教授は山のような論文から顔を上げもせず、ぼそりとつぶやいた。
「なにが?コーヒーのおかわりですか?それとも私の給料日?」
「あの人たち」
と涼子は言った。
「ビルの影の中の人たち。今日はチャチャチャを踊っています」
「うっそマジ?どこどこ?ちょっと見せて〜。あ、メガネメガネ」
モヤちゃんは大きなポケットが付いたワンピースの胸ポケット、通称「四次元ポケット」から、真っ赤な縁の丸メガネを取り出し、カフェの窓に顔を近づけた。教授は骨が鳴る音を立てながらようやく顔を上げた。首筋のこりをほぐしながら、彼は疲れた表情で言った。
「涼子さん、また始まったのですか?カラスが文学部はオワコンとさえずっているとスピーカーで言い張って、学生たちが大混乱になりましたよね」
「あれは事実でした」
涼子は鼻を鳴らした。
「カラスたちが、文学部長のカツラは3代目、とさえずっていたのを、私だけが理解できたのです」
「そして部長の毛髪遍歴が学内新聞の一面を飾るという惨事になりました」
教授は頭痛の兆候を感じはじめていた。
「ねえ。私には疑問なんだ。どうしても理解できない」
と教授が頭をひねる。
「なにをですか?」
と涼子。
「あれは、絶対に自毛だ。私にはわかる。あの生え際の自然さ。風になびく毛髪のしなやかさ。とても人工のものとは思えないんだ」
涼子とモヤちゃんが、黙って教授の顔を見つめる。教授は気づく。顔ではなく、頭髪だ。慌てて両手を広げて2人の視線をストップ。
「わ、私のことはどうでもいい。で、今度は影がダンスを?」
「そうです」
涼子はラテを一口飲み、顔をしかめた。
「このラテ、もはや人生の後悔みたいな味です」
「もう少し早く飲むべきだったわね。人生と同じように」
神妙な顔つきでモヤちゃんが見つめた。
「詩的表現は卒論に取っておいてください」
教授はため息をついた。
「どこを見ればいいのですか?」
「あのビルの13階」
涼子は窓の外を指さした。
「あそこで影たちがラテンダンスの練習をしています。リーダーの動きがぎこちないです」
教授は不本意ながら視線を向けた。
「私には普通の影にしか見えませんが、まあ、私は社交ダンスに関しては素人ですから」
「それはあなたが想像力欠乏症だからです」
涼子は断言した。
「3ヶ月前、神田の古書店で見つけた本に書いてありました。我々の世界と隣り合わせに存在する異界の住人たち。彼らは影として我々の世界をのぞき見る。特にラテンダンスに目がない、と」

「本当ですか?」
教授は眉を上げた。
「その本、どこで買ったのですか?」
「神田の迷宮文庫です。あそこの店長は、ちょっと変わった話ばかりするんですけれど、妙に説得力があるんです」
「迷宮文庫?古本屋かね。住所は?」
涼子は顔をしかめた。
「え、えーと。御茶ノ水駅の改札を出て右に曲がって。いや、左かな?」
「実在するのですか?」
「当然です!」
涼子は憤慨した。
「店長の鈴木さんがそう言ってました」
「私の苗字と同じですね」
教授は皮肉っぽく言った。
「涼子さん、私の妻は、心理カウンセラーです。ぜひご紹介させていただけませんか」
「奥さんも影の民に取りこまれたんですね」
涼子はテーブルに身を乗り出した。
「先生、ダンスは得意ですか?」
教授は予想外の質問に戸惑った。
「大学の頃にワルツを少し・・・なぜですか?」
「彼らは上手な踊り手を求めているんです」
涼子は熱心に説明した。
「影の民は人間界のダンスを学びたがっていて、上手な先生を探しているんです」
「なるほど」
教授は思わず笑みを浮かべた。
「で、私にダンスを教えてほしいと?」
「はい。モヤちゃんが言うんです。先生は100年に1人の天才だと」
「モ、モヤちゃん?」
教授の視線に気づき、外を凝視していたモヤちゃんは何度も何度もうなずいた。
「うん。先生、マジ天才」
教授はコーヒーを飲みながら考えた。この状況を論理的に考えると2つの可能性がある。1つは、涼子が完全に妄想の世界に生きているということ。もう1つは・・・いや、ありえない。だが、もし万が一。
「わかりました」
教授は突然言った。
「一度だけ付き合いましょう。その影たちとやらに会ってみたい」
涼子の顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。民間伝承の研究家として、全ての可能性を検証する職務がありますから」
どのみち、教授は暇だった。スマホに自分の論文を音読させてノートにメモを取ること以外、この日にやるべきことはなかった。時間を埋める必要があった。さもないと、また論文を書いてしまう。論文の執筆量と彼の名声の逆相関は、今や本人にも明らかとなっていた。その時、ガタっとモヤちゃんが立ち上がった。
「ああっ!ほんとだ!影がポッピンしてる!」
「ほら、言ったでしょ?」
「あそこ。ちょっとチェケラ!」
2人は喫茶店を出ていった。教授は彼女たちを待ったが、いつまでも戻ってこない。いつものように会計を1人で払うことになりそうだった。
