
短編小説「東京影タンゴ倶楽部」3(全5回)
第3章
13階のダンスホールは活気に満ちていた。
「リズムを感じて!」
教授は影の民たちに指示を出した。
「ワンツースリー!ワンツースリー!そう、腰を落として!いや、そんなに落とさないで!床に座ってどうすんの!」
モヤちゃんは前に立ち、鋭いヒップホップのステップを披露した。彼女の動きには既に影の民特有の流れるような優雅さが混ざっていた。
「見てください、先生」
涼子が小声で言った。
「モヤちゃんが踊ると、他の影の民たちも活性化するみたいです」
涼子の言葉通り、薄暗く、霞がかかったようにしか見えなかった影の民たちが、モヤちゃんが踊るたびに、輪郭をはっきりとさせていった。影の民たちは喜びに満ちたように、モヤちゃんのダンスに共鳴するかのように、かすかに揺らめいていた。教授がメガネをずり上げてモヤちゃんを凝視する。
「あれ?彼女は、どんどん透明になってきてないか?」
モヤちゃん自身の体からは、より多くの光の粒子が漏れ出していた。
「彼女は自分の生命エネルギーを他の影の民に分け与えているのかもしれない」
教授は眉をひそめた。
「このままでは、Wi-Fiのテザリングをつけっぱなしにしているようなものだ。ギガ無制限じゃない契約だったら月末に泣くことになるぞ!」
フリルをなびかせてマスタータンゴがフワッと教授の側に現れた。
「ドクトルタンゴ!そのとおりです。モヤちゃんには特別な才能があります。影の民のダンスを活性化させる力を持っているのです。だからこそ、彼女は急速に我々の世界に引き寄せられているのです」
「そんな・・・彼女を救う方法は?」
教授は愕然とした。マスタータンゴが言った。
「モヤちゃん自身が自らの意志で人間世界に戻りたいと強く願わなければなりません」
涼子は不安そうに言った。
「でも、モヤちゃんは影の世界に惹かれているみたいです。彼女、ここでのダンスが楽しくて仕方ないって。影の世界じゃインスタもTikTokもないのにね」
教授はモヤちゃんを見た。彼女は影の民たちと踊りながら、かつてないほど生き生きとしていた。彼女の笑顔は輝いていたが、その体はますます実体を失っていた。
「時間との戦いだな」
教授はつぶやいた。教授はモヤちゃんと一緒に、影の民たちにヒップホップとタンゴを融合させた新しいダンスを教えはじめた。モヤちゃんのキレのあるブレイクダンスと、教授の優雅なタンゴのステップが融合し、情熱と躍動感が融合した全く新しいダンススタイルが生まれた。影の民たちは最初は戸惑っていたものの、徐々に新しいダンスに魅了されていった。彼らの動きは力強さとしなやかさを兼ね備え、ホール全体が活気に満ちあふれた。
そして、2週間後。御茶ノ水のレトロな喫茶店。窓の外をオレンジ色に染め上げる夕日が、レンガ造りの建物をノスタルジックに照らしている。店内に流れるジャズの音色とコーヒーの香りが、静かに流れる時間を演出していた。重厚な木製のテーブルを挟んで、教授と涼子が向かい合っている。
「そろそろゼミを終わらせよう」
と教授が言った。白いカップに口をつけ、濃いめのコーヒーを一口飲む。
「え?先生、とうとう退職ですか?」
涼子は驚いたように目を見開いた。手元のラテには全く口をつけていない。
「いや。今日のゼミを終わらせよう」
教授は訂正した。
「ここ、大学ではございません。自分がどこにいるかわかりますか?まさか、私たち、今まで、ゼミやってたんですか?」
涼子はあきれたようにラテの表面をスプーンでかき混ぜる。白い渦がゆっくりと広がり、やがて消えていく。
「どうせ君しかいないんだ。いつどこでやっても同じだろう。まあ、君もいなくなれば、大学は私を雇う必要もなくなるので、まもなく、そうなるんだろうな」
教授は寂しそうにつぶやいた。
「このラテ。宇宙人が吐き出した石油のような味がします」
涼子はついに口にしたラテを一口飲んで、顔をしかめた。
「早く飲まないからそうなるんだ」
教授は自分のコーヒーカップに視線を落としたまま言った。いつものように涼子からの反応はない。沈黙がテーブルを覆う。
「それにしても、モヤちゃんは、どうしたんだ。なんでゼミに来ない?」
教授は話題を変えた。
「モヤちゃんにとって、ゼミの意味が消えつつあります。影の民になりつつあるんです」
涼子は表情を変えずに答えた。
「影の民?」
教授は怪訝な顔をした。
「モヤちゃんが言うには、影には重力も物質的な制約もないから踊るのに最適だそうです。TikTokもインスタもないから第三者の視線や見た目を気にすることなく踊りに専念できるそうです」
涼子は淡々と説明する。窓の外を歩く人々の影が、夕日に照らされて長く伸びている。
「このままだとどうなる」
教授は深刻な顔でたずねた。
「モヤちゃんは影の民と一体化します。今までの記憶も人間的な感情も消え去ります。それは、卒業アルバムの隅っこに写っていた名前も思い出せないクラスメイトのように、完全に存在が忘れ去られるということです」
涼子の声は静かだが、言葉には重みがあった。
「・・・それは、死ぬということか」
教授は言葉を失った。花がゆっくりと開くように、涼子が不思議な笑みを浮かべた。
「先生。先生なら、お分かりでしょう?」
ただならぬ涼子の表情に、教授は背筋が寒くなる。
「い、いや、なにも知らん。私はなにも知らんぞ。私はただのコーヒーと都市伝説が大好きな大学教授だ。こんなことは初めてだ。ど、どうしたらいい?」
教授は動揺を隠せない。
「取り戻すのです。ギリギリで」
涼子はラテのカップをテーブルに置いた。カップの底に残ったラテは、泥沼のように濁っていた。

その後も特訓は昼夜を問わず続いた。影の民たちは教授とモヤちゃんの指導の下、急速に上達していった。ぎこちなかった彼らの動きは、日に日に洗練されていった。影の民たちの輪郭はより鮮明になり、動きはより力強くなった。しかし、モヤちゃんの状態は悪化の一途をたどっていた。彼女は踊れば踊るほど、より多くのエネルギーを失い、ついには短い休憩も必要になった。
「大丈夫か?もうほとんど空気みたいになってるぞ」
ある夜、練習の合間に教授がたずねた。モヤちゃんはフワフワ漂いながら疲れた様子でうなずいた。
「うん・・・でも、なんだか不思議な感じ。体が軽くなって、思考が・・・散漫になるというか。大学の講義を受けているような・・・」
「モヤちゃん?人間世界のことは覚えてる?」
涼子は慎重に質問した。モヤちゃんは少し考えこんだ。
「ぼんやりと・・・でも、この踊りが今は一番大事。あ、そういえば数学のテストがあったような・・・」
教授は涼子と心配そうに視線を交わした。モヤちゃんの記憶が薄れ始めている。その時、ホールの照明が消え、冷たい風が吹き抜けた。すると、黒い霧のような物体がホールの中央に現れた。
「な・・・なんだ?」
教授は身構えた。マスタータンゴが前に出た。
「影の世界からの使者です。境界の薄まりが始まっています」
黒い霧は渦を巻きながら人型に変形した。それは頭からつま先まで漆黒のマントに包まれた姿だった。その顔は見えなかったが、2つの赤い光が目の位置で燃えていた。
「時が来た」
使者は低くとどろくような声で言った。マスタータンゴは慌てて一歩前に出た。
「ま、まだ時ではありません。約束の日までもう少しあります」
「境界は既に薄れている」
使者は冷たく言った。
「準備はできているのか?踊りは完成したのか?」
教授は前に出て胸を張った。
「最後の仕上げがある。秘密の香辛料を一振り。美味しいカレーのできあがりだ」
使者は教授を見つめた。その赤い目は教授の魂を見透かすようだった。
「人間よ」
使者は言った。
「なぜ我らの問題に関わる?」
「1つは私自身のため。今や2人だけとなった大切な我がゼミの学生を救うためだ」
教授は毅然と答えた。
「・・・それに、影の民がこの世界からいなくなるのを防ぐため。均質で無個性な世界が訪れるのを避けるため。影の民がいなくなれば、世界中どこを見ても真っ白でピカピカ。そんな地獄、誰が見たい?誰にでも、どこにでも影は必要だ。無個性で、面白みのない世界なんて、まっぴらごめんだ。光があれば影がある。影があってこそ、この世界は奥行きを持つんだ」
使者はモヤちゃんの方を向いた。彼女はほとんど透明になっていた。
「おまえの望みは叶うことはない。彼女はすでに我らのものだ。我々の伝統的なダンスにはシャドウムーンウォークもあるぞ」
「シャ、シャドウムーンウォーク?踊ってみたい!」
モヤちゃんが叫ぶ。
「月の裏側で重力や時間を無視してひたすらムーンウォークができる。早く仲間になれ。月の裏側で踊りたい放題だ」
「行ってみたい!・・・月の裏側」
モヤちゃんがうっとりとした声を出した。使者が低い声で笑う。
「影の世界へようこそ」
「違う!」
涼子が叫んだ。
「モヤちゃんは私たちの友達です!」
涼子を見ながら使者は冷笑した。マスタータンゴや影の民たちが震えあがる。
「シャ、シャドウムーンウォーク。・・・恐ろしい」
「どうして君らは影の世界を怖がっているんだ?」
と教授がマスタータンゴに言う。
「そうよ!シャドウムーンウォーク、みんなで踊りましょ!」
とモヤちゃんが影の民たちに声をかける。使者もうなずく。
「そうだ。愚かな影の民よ。今のおまえたちは不自由極まりない存在だ。影の世界に戻れば、どこにでも存在でき、時間も飛び越えて、なんでもできる。早く影の世界に戻るがいい」
「我々は、ある時、気づいたのだ。それはダンスというより、死の世界だ。我々はダンスがしたいんだ。我々にはいい感じの立体感が必要なんだ」
マスタータンゴが声を震わせる。使者が冷たく笑う。
「立体感!それらは壊れやすい。すでに崩壊を運命づけられているここの世界で、何をするつもりだ?限られた空間で、限られた時間で、できることは少ない。早く戻ってくるのだ」
「それだけはできない!」
マスタータンゴが叫ぶ。
「3日後、満月の夜。最終的な審判の時が来る。準備をしておけ。私たちのダンス審査員は厳しいぞ」
そう言うと、使者は再び黒い霧となって影の世界に戻っていった。ホールには重苦しい沈黙が流れた。
「あと3日しかないのね」
涼子は震える声で言った。教授は決意を固めた。
「十分だ。みんな、特訓を再開しよう!」
最後の3日間、影の民たちは文字通り命を懸けて練習に取り組んだ。教授とモヤちゃんは休む間もなく指導を続けた。
そして満月の夜が訪れた。
