





















街の片隅に、いつからか猫たちがいた。墓地の石塀の上、コインパーキングの車止めの陰、使われなくなった空き地の、人の背丈ほどに伸びた草むらの中。それが彼らの定位置だった。彼らは群れを成していたが、結びつきは緩やかで、それぞれが独立した個として存在しているように見えた。
私は彼らと関わりを持たなかった。雨の日に濡れていても傘を差し出すことはなく、痩せているように見えても食べ物を分け与えることはなかった。彼らに名前をつけることも、声をかけることもしなかった。一種の暗黙の了解のようなものだった。彼らは私の生活に干渉せず、私も彼らの世界に踏みこまない。彼らはただの風景であり、私も彼らにとってはおそらく、日々通り過ぎる無数の影の一つに過ぎなかった。
彼らは人に媚びるということを知らなかった。近づけば音もなく距離を取り、かといって敵意を向けるでもなく、ただそこに在るという事実だけを淡々と示していた。彼らの自立した態度は、都市の構造物と同じくらい無機質で、それでいて確かな生命感を持っていた。
ある時期から、彼らの数を少しずつ見かけなくなった。一匹が消え、また一匹が消えていく。毎日その姿を確認していたわけではないので、変化は緩やかで、気づいた時にはもう、ほとんどの猫がそこにいなかった。最後に残ったのは、あの茶色い猫だっただろうか。
彼らがいなくなって初めて、私は自分が無意識のうちに彼らの存在を日常の座標としていたことに気づいた。あの角を曲がれば石塀の上に黒い猫がいるはずだ、という予感。駐車場を横切る時、車の陰からこちらをうかがう三毛猫の姿。そうした当たり前の光景が失われた時、心に静かな穴が空いた。それは悲しみというよりは、むしろ戸惑いに近い感覚だった。いつもそこにあったはずのものが、何の説明もなく消え去ったことへの。
不思議なことに、いなくなると寂しくなるものだ。
街は常に変化している。古びたアパートが取り壊され、更地になり、月極の駐車場へと変わっていく。暗い高架下に連なる昔馴染みの居酒屋や不思議な店は、再開発されて明るいながらも薄く感じる。猫たちが日向ぼっこをしていた縁側も、雨宿りをしていた軒下も、そうした流れの中で静かに、しかし着実に姿を消していった。人の往来が激しくなるにつれ、彼らのような存在が息を潜める場所は奪われていく。それはそれで、しかたのないことだと頭では理解していた。
私の記憶には、とりわけ印象的な光景が一つだけ残っている。夜の街灯の下、カウボーイハットを被った男が、一匹の茶色い猫をただひたすらに撫でている姿だ。男は何も語らず、猫も鳴き声をあげることなく、ただ彼の大きな手を受け入れていた。その関係性がどのようなものだったのか、私には知る由もない。彼らは毎晩のようにそこにいたが、それもいつからか見なくなった。男が来なくなったのか、猫が先にいなくなったのか。確かめる術もなく、ただその場所だけが、かつてそこに静かな時間があったことを知っているかのように、今も街灯に照らされている。
猫たちがいた場所は、今ではすっかり様変わりした。新しいアスファルトが敷かれ、真新しいフェンスが立てられ、新しいマンションが建てられた。春になると新しい草花が咲き乱れている。彼らが生きていた痕跡は、物理的には何も残っていない。ただ、私の意識の中にだけ、彼らの姿は残り続けている。コンクリートの壁に寄りかかり、翡翠色の瞳で虚空を見つめていた猫。車の下で丸くなり、世界の喧騒から身を隠していた猫。カウボーイの男の傍らで、夜の闇に溶け込んでいた茶色い猫。彼らの不在は、街の風景から彩度を一枚剥ぎ取ったようだ。誰にも干渉されず、誰にも管理されず、ただ己の流儀で生きていた余白のような存在そのものだ。空白は新しいビルや綺麗な道路では埋められない、静かな寂しさとして私の心に沈んでいる。世界のシンプルさ、一瞬の尊さ、在ることの美しさ。色彩の対比、壁のざらつき、葉のしなやかさ、五感を呼び覚ます、リアリズムの魔法。猫の温もり、葉ずれの音、空気のすがすがしさ、そこにいるかのような、錯覚の戯れ。