
映画評「ファントム・オブ・パラダイス」(1974年/アメリカ)
1974年/アメリカ/92分 監督・脚本:ブライアン・デ・パルマ 製作:エドワード・R・プレスマン 撮影:ラリー・パイザー 美術:ジャック・フィスク 出演・音楽:ポール・ウィリアムズ 出演:ウィリアム・フィンレイ/ジェシカ・ハーパー/ジョージ・メモリー
あっという間に時間が過ぎていった。勢いのままに感覚がすっ飛んで行く。製作者全員がスピードを決めてストーンしてたかのように狂気に近いパラダイス。ロックンロール・ミュージカルといえばそうなのだろうが、ポール・ウィリアムズはソフト・ロックの人なので、音楽については私の好みではなかった。ストーンズが作曲すると名作になったような気がする。スワンは教祖に近い。完全に異端の宗教だ。ステージで人が死んでも観客は大盛り上がり。病的に歪んだ祝祭感覚。圧倒的な共同幻想。最後はステージの演出のように盛大に滅んでいった。不遇なミュージシャンが追いつめられ、追いこまれて、なにも達成できずにボロボロになって消えていく。敵であるスワンも、自らが生贄となった形で、意図したようにステージが熱狂に包まれる。非常に皮肉な結末だ。エンディングテーマもひどい。「ダラダラと生き続けるより、思いきりよく燃え尽きよう。(中略)何の取り柄もなく人にも好かれないなら、死んじまえ。悪い事は言わない。生きたところで負け犬。死ねば音楽ぐらいは残る。お前が死ねばみんな喜ぶ」完全に突き放された感覚になった。ただ、映画というものは表現の幻のようなものであり、監督の本音だけを歌いあげる必要はない。こういう歌詞こそが、この映画のラストにふさわしく感じたから、このような歌になったのであろう。この曲から、暴力的な音楽業界視点での、生贄のようなロック歌手たちの存在が浮かび上がってくる。エンターテイメント興行の持ついかがわしさ、怪しさ。ステージのもつ魔物のような高揚感、中毒性。2012年の今見ても臨場感がある。物語の背景として、巨大になった当時の音楽産業が印象的に描かれている。1969年の「オルタモントの悲劇」と似通った構造だ。ストーンズのコンサート中に警備員で雇われていたヘルズ・エンジェルスが観客を殺した事件だ。楽園が地獄に変わる瞬間。まさに悪魔がささやき、怪人が暗躍する世界である。映画の制作年を考えると、キッスやクイーンが活躍しはじめる時期。ウッドストックは1969年でワイト島は1968年から1970年。ブライアン・ジョーンズは1969年7月、ジミヘンは1970年9月、ジム・モリソンは1971年7月に亡くなっている。ロックスターたちの、悪魔と契約していたかのようなサウンドや、それゆえの早過ぎる死。過激に吸収し、消化し、さらに欲求が増していく観客たち。映画のラストで踊り続ける観客たちが悲劇をさらに悲劇たらしめていく。この観客は、映画の観客である私たち自身であるかもしれない。テープが自分自身を証明していて、燃やすと破滅する考えは面白い。これは音楽のテープではなくてビデオテープだ。映像である。スワンには監督自身の投影があるのではなかろうか。この映画を撮っていたデ・パルマは、テープがなくなった時点で自分も破滅すると考えていたのではないだろうか。監督自身がハリウッドから距離を置いていた時期に撮ったことも関係しているかもしれない。自らの中にある、追いつめられた不遇な監督のイメージがウィンスローとなり、過激なこの映画を撮る監督のイメージがスワンとなっている。ラストに至るまでの一連のカットは、監督自身が自分の運命にあらがうかのようにカメラを担いで最大の宿敵である私たちに向かって突撃するかのようだ。邪悪な見世物を映し出すこの映画自体も邪悪な見世物なのだ。作品から距離を置くのではなく、監督自身が登場しているかのようにのめりこんでいる。撮影に目を向けると、分割画面やステージでのカット割など、何度でも見たくなるような独特の魅力を持っている。仮面の奥で眼光に狂気が宿っている。強烈なライティングに目がくらみ、催眠術のようにどこかに持っていかれる。荒々しく、若い画面使いだ。なにかの憎悪に近いエネルギーを感じる。デ・パルマ・カットは追い詰められないと真価を発揮しないのかもしれない。