映画評「ブロードウェイと銃弾」(1994年/アメリカ)

1994年/アメリカ/98分 監督・脚本:ウディ・アレン 脚本:ダグラス・マクグラス 撮影:カルロ・ディ・パルマ 出演:ジョン・キューザック/チャズ・パルミンテリ/ダイアン・ウィースト/ジェニファー・ティリー

監督はウッディ・アレン。出演はしていない。監督として、これだけ多くの場面と登場人物をまとめ上げるにはたいへんな労力が必要とされたことだろう。出演していないせいで、作りこみに力を入れている。晩年の彼の映画は、本人が出てきてしまうと力なく、本人が引っこんでいると力強い。映像は、古風な気品を求める彼の趣味の要素が強い。音楽についても同じだ。時代を感じさせる小道具や、セットの作りについても完成度が高い。手間暇かけて当時の雰囲気を再現するのは楽しい行為だと思う。きめ細かいセンスを感じる。反面、当時を再現するのにこだわりすぎて、刺激的ではない。すばらしいのは脚本だ。書いたのはウディ・アレンとダグラス・マクグラス。人間がきちんと描けている。骨太な男を描けている。ギャングのボスに雇われた売れない劇作家。普通の作り手だったら、その設定だけで終わる。しかしこの映画では、手下のギャングが思いもよらぬ才能を持っていて、脚本を書き換えて傑作を作りあげていく。このシナリオ展開の演出がこの映画のすばらしいところだ。ブロードウェイと銃弾、劇作家とギャング。2つの組み合わせは、普通であれば相反する意味合いが強い。しかし劇作家とギャングはどこか共通する要素を持っている。意外性。この映画は、そこが面白い。主人公は劇作家でありながらも、普通の市民だ。「僕はアーティストだ」というセリフで映画が始まる。最初はギャングの介入を激しく拒否しているが、個性的な役者や環境のせいか、やがて自分の状況を受け入れてしまう。決められた仕事をコツコツこなすだけで精一杯だ。その逆を行くのがギャングのチーチだ。最初は嫌々同席していたのに、いつのまにか芝居にのめりこむ。台本の改善案を出し「芝居の流れがまったく変わってくる」とプロデューサーが感心し、実際のこの映画の流れも変わってくる。さらにチーチは、身の危険を顧みずに、本来なら守るべきはずの大根役者を始末する。自分の組織にたてつくことになるので結果は明らかだ。理解しているのに行動する。芸術家は芸術のために全てを犠牲にする。死の間際であっても、自分のことではなく作品のことをしゃべっている。それを目の当たりにすれば、主人公も、自分が芸術家なのかどうかの判断は、はっきりしてしまう。ここまでたどりつけない。孤高の存在だ。しかし主人公は、自分の限界に気づくが、幸せを手に入れている。たしかに、ギャングや芸術家ばかりだと、社会はうまく回っていかない。最後のアパートを見上げながらの口論は、いかにもウッディ・アレンの映画。笑いの中に真実がある。アーティストとして成功せず、人生として成功している。挫折でありつつも、成長を描けているので不思議な感動がある。この劇作家は、これだけの体験をしたのだから、その後、傑作をものにすることもあるかもしれない。私はこの映画を見ながら、自分でも驚くほどの発作的な大きな笑いが、あまり笑いとは関係ないようなシーンで飛びでた。女優の銃殺のシーン、チーチの最期の言葉のシーンなど。「命が大切?」「もちろん!芝居より命だ」「美しい芝居をメタメタにされても?」と言う一連のシーンにも、いつのまにか芝居に対する立場が替わっていた状況を表していて面白かった。派手に笑いながら考えさせられてしまう。会話の軽みとテーマの重み。どちらも充実している。ギャングがどんどん芸術にのめりこむ。ドタバタコメディーとして機能しつつも、芸術を追い求める者の真剣な姿勢がそこにある。いくら才能にあふれていても、魅力がなければここまでのめりこまない。一度とりこになったら逃れられない。芸術の甘美な魔力を感じた。劇中劇である。自分の世界を舞台にしている。「こんな時、手助けしてくれる人が現れたら」と脚本の段階でアレン自身も悩むことがあるだろう。その苦闘の中で「僕の脚本を手直ししてくれる人がギャングだったら?」と思いついたのかもしれない。舞台裏こそが、この映画の主な舞台だ。役者が演じているだけあって、役者を生き生きと描けている。舞台が生き生きとして自ら良い方向に向かっていく。シナリオが補完され、大根役者が抹殺される。理想的なパターンだ。この一つの成功の流れを、舞台裏にいるかのように体験できるので、見ていてワクワクした。