
映画評「エルミタージュ幻想」(2002年/ロシア・ドイツ)
2002年/ロシア・ドイツ/96分 監督・脚本:アレクサンドル・ソクーロフ 脚本:アナトリー・ニキーフォロフ 撮影:ティルマン・ビュットナー 音楽:セルゲイ・イェチェンコ 出演:セルゲイ・ドレイデン/マリヤ・クズネツォーワ/レオニード・モズゴヴォイ/ダヴィッド・ギオルゴビアーニ
90分1カット。シーンはたくさんあるけど、あえて1カット。本番1回で終了。しかし準備にとてつもない労力がかかっている。22名の助監督に数百名のエキストラ。巨大なエルミタージュ美術館を舞台に使った演劇のようなものだ。手法の新しさと、舞台装置の広大さ。時代が入り交じり、テーマパークのようだ。これと似たような映画を見たことがない。幻想的で不思議な映画だ。この発想はすごい。ルーブル美術館や他の美術館もがんばってほしいものだ。手持ちカメラと一緒に美術館を進む。室内だけど、あまりに広大なので、カメラの置き場所に全く困らない。ただ、手持ちカメラの独特の動きが少し苦痛だ。いくら最新鋭のカメラを使っているとはいえ、見ていてちょっとクラクラしてくる。人々の間をカメラを持って、音もなく、揺れを極端に抑えつつ、スタッフを映さないように、自分の影を画面に入れないように、作品をきちんととらえつつ、役者の動きに合わせて進まなければいけない。この映画は、カメラマンが一番大変だ。メイキング映画を見ると、けっこう重そうなカメラだ。芸術というよりも、これは肉体労働に近い。急いだり、台車に乗ったりして、90分、よくがんばったと思う。美術館なので、あまり強い光を当てることができないのか、それとも持ち運びできるハイビジョンカメラの性能のせいなのかよくわからないが、前半の画面が暗い。もう少し明るいと、もっと良かった。テレビのような映像の質感も気になった。映画撮影がいかに作りこまれたものであるか、逆の意味でよくわかる。しかし、飾られている美術作品自体が一級品なので、非常に有意義な時間を過ごした気分になる。座りながら眺めることができるので非常に楽だ。BGMの演奏も美しい。ヨーロッパ美術を眺めつつ、当時の人々も登場する。部屋が変われば時代も変わる。広大なロシアについて、思いをはせてしまう。主役ともいえるフランスの外交官が、ロシアに対する偏見そのままに自由にしゃべっているのが印象的だ。絵を解説する案内人としてはあまり機能していない。彼はヨーロッパの代表だ。第三者の視点を入れることで、ロシアを客観視している。なかなかバランスの取れた自由な作風だ。ソ連の時代だったらプロパガンダ映画になっていたはずだ。逆にソ連時代など、近現代の歴史はあまり重視されていないのも印象的だ。時代にとっても、監督にとっても、ソ連時代は、まだ客観視できるほど遠くにないのかもしれない。スターリンが出てきて監督を攻撃したり、美術館の職員を殺しはじめたら、別の種類の映画になってしまうだろう。この映画は、古きよきロマノフ朝への憧憬となっている。棺桶を作るシーンが出てきたが、あれがこの映画の限界だろう。「戦争ですよ」「どことの戦争?」「ドイツと」「ドイツとは何だね?」「ゲルマン人の連合国家。20世紀半ばにそこと戦争を」「この町は包囲され100万人以上が死にました」「100万人以上?高くつきましたな。街にもエルミタージュにもやけに高くついた」「自由に値段はつけられません」「妥当か」「払いました」「そうだ。高くない」外交官と監督。この2人の対比は、ソ連を知る者と知らない者の対比でもある。「なぜあなたに人々の未来が分かる?天地創造の物語をご存じないのに。なぜ黙られる?聖書も知らず人々の未来がなぜ分かる?」と外交官は若者を罵倒するが、カメラや監督は絵を映して無言だ。自信たっぷりの外交官に比べて監督は控えめだ。日本人のようなしとやかさだ。もっと激しい口論をふっかけたり、主張もありそうだが、どこか元気がない。1986年のペレストロイカまで、自分の作品を上映禁止にさせられた監督だ。モスクワから距離を置き、美術館のあるサンクト・ペテルブルクで活動している監督だ。傷ついた者の幻想のような気がする。宮廷そのものが美術館だった場所だ。美術館そのものも、同じように夢を見ている。断定的な口調や使い古されたスローガンはいっさい存在しない。眠気を誘うような落ち着きや一色に染まらない透明感を持つ。時代を越えてロシアの源流が、大いなる海が、静かにかいま見えていく感覚。悪い気分にはならない。歴史に封じこめられるように外交官は残り、監督とカメラと私たちは進む。ここから先は、未来だ。映画もここで終わるが、あまりに1カットが長すぎたせいか、終わった気もしない。次のカットは90分か、それとも90年か。永遠に続く芸術への崇拝。歴史の広大さ、美術館の広大さ、芸術世界の広大さに触れる良い機会だった。
