
映画評「ブルジョワジーの密かな愉しみ」(1972年/フランス)
1972年/フランス/102分 監督・脚本:ルイス・ブニュエル 脚本:ジャン=クロード・カリエール 撮影:エドモン・リシャール 出演:ジャン=ピエール・カッセル/フェルナンド・レイ/ポール・フランクール/デルフィーヌ・セイリグ/ステファーヌ・オードラン/ビュル・オジェ
普通の映画は、ある程度、観客に説明しつつ話を続けていくはずだ。「ここはこういう場面、次はこうだよ」というお約束のもとに映画は動いている。現実もそういうふうに動く場合もある。ここでは、約束事に縛られた映画から、現実から、軽やかだ。夢のシーンを続けられると、だんだん、自分がなにを見ているのかよく分からなくなる。夢の中で撃ち殺し、撃ち殺される。現実においても命を狙われ、撃ち殺し、逮捕される。軍事演習も近所で行われる。日常とは違った、どこか過激な世界だ。コカインを密輸している腹黒い外交官。登場人物の3人の男は、ドラッグの影響下にあるのかもしれない。ドラッグで作られた白昼夢のような現実。空想の世界も薬のせいで驚くほどリアルになっているのかもしれない。頭のどこかを刺激され、最も生存に必要な食欲が大きな要素を占めた夢を見ているのかもしれない。アメリカ映画だと、この状況をドラッグの影響として合理的に説明しそうだ。ただ、この映画では、なにか不吉な感覚がある。主な登場人物ではない兵士2人と警官の夢のシーンが、途中で唐突に挟まれている。その3つの夢の中では死者がよみがえる。刺激的な状況。夢の中ではなんでもありだ。ありきたりでうわついた気分へのカウンターパンチ。どこか反社会的要素を秘めている。ドタバタ喜劇のように見えて気品がある。即興で作られたように見えてしっかりしている。スタイリッシュとでもいうべきなのか。特にストーリーが存在しなくても外見だけでなんとかなる。立派な室内装飾や立派な服装や優雅な身のこなしの役者があってはじめて成り立つ映画だ。男女6人が無言で道を歩くシーンが印象に残った。このシーンが3回くり返される。おそらくは目的地では晩餐会が行われるのだろう。しかし、どこまでもどこまでも道が続く。黙ったままだと、見ている方は不安になる。見ている側としては、説明不足のこの状況に不満がつのる。しかし、現実自体も説明不足だ。私たちも、長い長い道のりを無言で歩いているのかもしれない。あのまま行ったら、きっと彼らの人生は崩壊する。最終的には、なにも持たず、食事からも遠く、あのように歩きつづけるだけの人生が待っていそうだ。それは異常なことだろうか。どことなく彼らの歩みは自然だ。無駄口をたたかないだけ好感が持てる。食事の邪魔をされるのは、この映画の場合は非現実的な状況が多くて喜劇の要素もあるが、不吉な意味も含んでいる。思想的なテーマではなく、求めるものは美味しい食事。食欲は重要。食べないというのは死に近づく行為だ。逃れられない悪夢のように食事にありつけない登場人物たちに、なにかが近づきつつある。最後、夢から覚めて、冷蔵庫から肉を取り出して食べる。一瞬だけ死から遠ざかる。しかし、食後はおそらくベッドに入り、そしてまた夢を見るはずだ。台所で必死に食べてはいるが、夢の中では食事ができず、死に近づくことになるだろう。夢の中に死のイメージが入りこみ、現実を侵食し、だからこそ食べることができない。死から離れることができない。登場人物は、どことなく疲れている。司祭が庭師になるという意味は、意外性があって面白い要素もあるが、死が身近に入りこんだことの表れでもある。兵士たちが何人も家に入りこんだ意味も同じだ。兵士も死に近い存在だ。最初の場面では、レストランに死者が明らかに存在している。生活に、死が近づく。監督はブニュエル。1900年生まれだから、製作時は72才。若者の発想とは明らかに違う。彼の中には「さあ、いよいよ自分に死が近づいてきたぞ!」という感慨もあったのかもしれない。夢と死と食欲。老境にあって、夢と死が身近だ。だからといって、絶望しているわけではない。最後の道のりも優雅だ。道の向こうで待っているものに対して特に怖れてはいない。前へ前へ進む。発想の意欲と映画の魔力。力強い生命力。誰もが同じ道を歩いている。ここでは時間が止まっている。腹をすかせたまま、道を歩き続ける。映画という手段を使って、永遠の命を手に入れているような気がする。むさぼり食うように映画をむさぼり撮っている。映画欲。夢に重きを置き、流れるような自動記述。アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」のようだ。必殺のシュールレアリスムだ。映画史としてはヌーベルバーグの即時性、即興性も秘めている。文化の基盤がないと存在さえも許されない映画だ。アメリカで作られる可能性は低い。フランス映画の栄養が行き届いている。「ブニュエルの密かな愉しみ」に満ちた映画だ。
