
短編小説「東京影タンゴ倶楽部」2(全5回)
第2章
涼子とモヤちゃん。この2人組は教授の白骨化した研究人生に唐突に現れた、ピンクの蛍光ペンみたいな存在だった。研究費は打ち切られ、学会からは村八分にされた教授にとって、彼女たちの突拍子もない言動は、ブラウン管テレビの砂嵐の中から聞こえてくる、わけのわからない異国の冒険活劇のようだった。もしかしたら、この珍奇な出会いこそが、澱んだ研究生活の起爆剤となるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、教授は御茶ノ水のとあるビルへと向かった。指定された場所に到着すると、なんと、涼子とモヤちゃんが本当にそこにいた。いつも謎めいた場所と謎めいた用事で呼び出されるのだが、十中八九ドタキャンされるのが常だったのだ。今回は奇跡か、はたまた陰謀か。
ビルの中に入り、大きなエレベーターに入り、12階を過ぎたあたりでガタリと止まる。
「故障ですか?それに、13階がないようですね」
教授は眉をひそめた。学者の癖で、つい事実の確認を怠らない。エレベーターのボタンを見ると、12階の次は14階だ。
「でも、ないと思われている場所こそが、彼らの住処なんです」
涼子はエレベーターの壁を指差した。「見てください、先生。よく見ると、この壁に薄い影があるでしょう?」
教授は目を凝らした。確かに、壁に人の顔ほどの大きさの、かすかな影が揺らめいていた。
「モヤちゃん、お願い」
涼子は言った。モヤちゃんは胸ポケットから小さなスプレー缶を取り出し、影に向かって噴射した。シュッと音を立てて、スプレーから出た蛍光色の塗料が影の形を浮かび上がらせた。それは奇妙な形のドアノブだった。モヤちゃんがドアノブを回すと、壁がスライドするように開き、どこまでも続く薄暗い通路が現れた。通路の奥からは、かすかにタンゴの音楽が聞こえてきた。
「さあ、先生」
涼子はにやりと笑った。
「秘密の13階へようこそ」
教授は戸惑いながらも通路を進んだ。通路の壁には、様々なポーズをとるダンサーたちの影絵が映し出され、まるで生きているかのように動いていた。通路の先のドアを開けると、無限に続くかのような広大なダンスホールが広がっていた。黒檀と白大理石のモザイク床。天井からは、どこにも吊り下げられていないシャンデリアが浮かび、幻想的な光を放っていた。壁一面に飾られたアンティークの鏡。ホールの中央では、影の民たちがタンゴを踊っていた。彼らは人の形をしていたが、その輪郭は常に揺らめき、光を通すような半透明の体を持っていた。動くたびに、彼らの体から星屑のような光の粒子が舞い散った。彼らの動きはぎこちなく、リズムに乗れていない者も多かった。
「これが、影の民か」
教授は息を呑んだ。「影の民」と呼ばれる存在たちは、ある者は西洋貴族風の服装、ある者は江戸時代の着物、またある者は未来的なデザインの衣装を着ていた。共通しているのは、彼らが皆、何らかのダンスの動きをしていることだった。向こうから西洋の貴族のような格好をした恰幅のよい年配の紳士が歩いてきた。両手をあげて満面の笑みを浮かべている。
「ついに来てくださいましたね」
彼も半透明の体を持っていたが、他の影の民よりも実体感があった。涼子がお辞儀をした。
「迷宮文庫の店長の紹介でお伺いいたしました」
「待ってました。私がこの店のオーナー、マスタータンゴです!ハッハッハ!」
紳士は深々と一礼した。
「正確には、第108代マスタータンゴになります」
「108代目?」
「我々影の民は、光の届かぬ影の世界から来ました。千年前から、この世界へ踊りを学びに来ているのです」
マスタータンゴは言った。
「我々はあなたがたの影として日中を過ごし、夜になると本来の姿に戻ります。そして今、我々には助けが必要なのです」
彼は手を挙げると、ホールの端に設置されていた古いレコードプレーヤーが動き始め、哀愁を帯びたタンゴのメロディが空間を満たした。
「我々影の民には、ある問題があります」
マスタータンゴは真剣な表情で言った。
「我々は形を保つために踊り続けなければなりません。特に情熱的なラテンダンスは、我々の存在を安定させるのに最適なのです。しかし・・・」
彼は沈痛の面持ちでため息をついた。
「我々は、タンゴがヘタクソなのです」

教授は吹き出しそうになったが、なんとかこらえた。マスタータンゴは続けた。
「百年に一度、影の世界と人間の世界の境界が薄くなる時期があります。その時、人間世界での我々の踊りが下手だと、影の世界に引き戻されてしまうのです。そして、その百年に一度の時が・・・」
「今月末です」
涼子が言った。教授がスマホをいじりながら日付を確かめた。
「今日は3日だから、あと約1ヶ月か」
「あなたたちが影の世界に戻ったら、この世界はどうなるのでしょうか?」
涼子が不思議そうな表情を浮かべてマスタータンゴに聞いた。マスタータンゴは衝動的にタップダンスを踊った。
「我々が消えたら、とっても恐ろしいことがこの世界に起こる!この世界の影が、少し薄くなる。立体感が、少し減ることになる!」
「そ、それは少し大変だ」
と教授がうなずく。
「だから急いで先生を連れてきたんです」
「わ、私になにができるというのですか?」
教授は混乱していた。
「先生はダンスの天才です。ヒップホップを生まれた時からずっとやってる私だけが知ってる」
モヤちゃんが自信たっぷりに言い放つ。その時、ホールの中央で踊っていた影の民の1人が、突然霧のように消え始めた。彼の輪郭がぼやけ、体から光の粒子が急速に漏れ出していた。
「リラックス!リズムを感じて!」
マスタータンゴが叫んだ。しかし、その影の民は恐怖に顔を歪め、完全に霧散してしまった。後には人間の靴下のような黒い影だけが床に残された。
「見てください」
マスタータンゴは悲しげに言った。
「我々は踊りが下手だと、このように消えてしまうのです。百年に一度の境界が薄くなる時期には、さらに危険が増します」
モヤちゃんはスマホをいじり、軽快なヒップホップのビートを流しはじめた。驚くべきことに、消えかけていた影の民の体が再び濃くなっていく。彼は起き上がり、モヤちゃんのビートに合わせて踊りはじめた。それはタンゴではなく、ブレイクダンスだった。
「モヤちゃんのヒップホップは、影の民の生命力を活性化させる効果があるのかしら。これはいい研究になりそうだわ!」
涼子は説明した。教授もうなずく。
「うむ。彼らにとって、ヒップホップのリズムは馴染みやすいみたいですね」
モヤちゃんは影の民たちにヒップホップのステップを教えはじめた。最初は戸惑っていた影の民たちも、徐々にモヤちゃんの動きを真似て、楽しそうに踊りはじめた。彼らのぎこちなかったタンゴは、力強く、リズミカルなヒップホップへと変化していった。
その時、天井から一条の月光が差しこみ、ダンスホールの中央にいたモヤちゃんを照らしだした。
「おや、モヤちゃん!」
教授は驚いた。丸メガネのモヤちゃんは以前とは違っていた。彼女もまた半透明になりつつあり、足元から星屑のような光の粒子が舞い上がりはじめていた。身体の輪郭が空気ににじみ、少しずつ透明になっていく。彼女の白いワンピースも、光を透かしはじめていた。
「わわわ!ヤバイヤバイヤバイ!なにこれ」
「心配しないで」
マスタータンゴが微笑んだ。
「これは一時的なものです。影の世界と交流するときだけの現象です。踊りが終われば元に戻ります・・・たぶん」
「たぶん?」
教授は眉をひそめた。
「さあ、先生も、お手本を見せてください。先生、あなたはただの都市伝説研究者じゃないんです。あなたは影の舞踏家なんです!」
涼子が声をかける。教授は深呼吸した。そして、長い間忘れていたステップを思い出し、踊りはじめた。教授は腕を伸ばし、一番近くにいた女性の影の民をダンスに誘った。彼女は喜んで応じ、教授の手を取った。その瞬間、教授の体から光の粒子が漏れだし、彼自身もわずかに半透明になっていった。
「これは・・・」
教授は自分の変化に驚いた。体からは金色の光の粒子が舞い上がり、パートナーの影の民と混ざり合った。ホール全体が幻想的な光で満たされていった。情熱と正確さ、秩序と混沌、光と闇、存在と非存在の境界線。優雅に踊りながら教授の心の中で、長い間眠っていたなにかが目覚めはじめていた。ふと、視線に気づく。
「君たち・・・笑ってたね」
「全然笑ってません」
「笑ってません。私の表情は先生に見えてません」
「モヤちゃん。動きでわかるよ。ゲラゲラ笑ってたじゃないか。・・・君たち。ひょっとして、私の踊りをバカにするためにここに呼んだのかね?」
「そ、そんなことありません」
涼子が真顔で否定する。
「先生は影タンゴの天才です。情熱の影タンゴ。人間にはこの価値がわからないのです」
「おお!ドクトルタンゴ。我々を救ってください。我々に本物のタンゴを教えてください」
マスタータンゴは大袈裟なゼスチャーで祈るように懇願する。教授は周囲を見回した。不安そうな表情で彼を見つめる影の民たち。透明になりつつあるモヤちゃん。そして熱心な眼差しの涼子。教授は指を立てた。
「それでは、取引をしましょう。私が手助けするには、一つ、条件があります」
教授は涼子にヒソヒソと耳打ちした。
「・・・わかりました。なんとか手を打ちましょう」
教授の願いを聞いて、涼子は力強くうなずいた。教授は真剣な表情でうなずき返し、心配そうな表情でモヤちゃんを見つめる。モヤちゃんの輪郭からは、星屑のような光の粒子が漏れ出し、宙を舞っている。
「よし!私のタンゴを教えてやろう」
影の民たちから歓声が上がる。マスタータンゴは満面の笑みで教授を抱きしめる。
「ありがとう!偉大なるドクトルタンゴよ!」
「時間がありません」
涼子が急かした。
「あと一ヶ月しかないんです」
「わかった」
教授は決意を固めた。
その日以降、モヤちゃんは半透明なままだった。ゼミの時は出席の確認に大変だった。
「モヤちゃん、いるか?」
と教授が呼ぶと、
「はい!ここにいます!」
と背後から大きな声が聞こえてきて心臓に悪い。たまに影に紛れて尾行されたこともある。ゼミで涼子が休んだ時は致命的だった。「そして誰もいなくなった。それでもゼミは継続へ」と見出しが付いて、虚空に向かって話しかける教授の写真と共に学内新聞に掲載された。居酒屋のバイトでビールジョッキが空中に浮遊しているように見えること以外はモヤちゃんは問題なく日常生活を楽しく営んでいた。
