
第二章「古井戸の激昂」
老人は、明らかに数日、いやもしかしたら数週間風呂にも入っていないのだろう。油分を含んだ白髪は数束に分かれてボサボサと広い肩にかかり、着古された厚手のフランネルシャツの襟元はヨレヨレで、長い腕がダラリとぶら下がる。薄汚れたコーデュロイパンツの膝は擦り切れていた。擦り傷の付いた革のジャケットは肩からだらしなく垂れ下がり、春の冷たい風に少しだけ震えているようだ。霧のかかった眼鏡の奥の目は、昔を見つめるように遠い。それでも、その顔にはどこか諦めにも似た落ち着きがあり、物憂げな瞳の奥には、かすかながらも情熱のようなものが宿っているようにも見えた。公園の街灯の下で、その姿は影絵のように輪郭だけが強調され、別の時代から迷いこんだ幽霊のようだった。老人の過ぎ去った季節を映すかのように去年から残っていた落ち葉が足元で舞っていた。
夜の公園に老人の怒号が響いた。
「なぁにしてんだ、こらぁ!人の前でド派手にスマホを爆砕してんじゃねぇ!」
パークギター・シンヤはメガネを直して老人を凝視して鼻で笑った。
「私は芸術に殉じているだけです」
「僕のスマホ・・・」
ムーンスター・トモヤは四つん這いになって、地面にめりこんで粉々になった部品をぼうぜんと眺めた。
「坊主、おまえのスマホを破壊したこの変人、訴えた方がいいぞ。おれが証人になってやる!」
「変人とは失礼な。おれは音楽の啓蒙者だ」
パークギター・シンヤは胸を張った。
「啓蒙者が人のスマホ粉砕してどうすんだよ!」
老人は怒鳴る。ムーンスター・トモヤは困惑して2人を見比べていた。
「あの。僕、別に訴える気は・・・」
「甘い!」
老人が人差し指を突き立てた。
「今どきの若者はスマホが命なんだ。破壊されたら人生も破壊だ!」
「だからこそ、その執着から解き放たれるべきだ」
パークギター・シンヤは真剣な顔で言った。老人が唸る。
「いいか、おれはな、この公園の管理人であり、守護天使でもある。おまえみたいな自己陶酔男は許さん!」
「あなたは、ただの、ここの住人じゃ・・・」
「違う!これはライフスタイル。アーバン・サバイバル術だ。いくぞ、音楽オタク!」
老人はゆるやかにボクシングの構えを取った。
「ではこちらも、平和のための戦いに臨みます」
シンヤはギターを丁寧にベンチに置いた。老人がゆっくりしたモーションでパンチを放ったが、足を滑らせ、見事に空振りして前のめり。
「わ、危ない!」
シンヤは慌てて老人を支えた。そのまま、2人はもつれて転がる。
「いってぇ!どこ触ってるんだ!」
「すみません、偶然です!」
ベンチの女性が呆れ顔でケーキを頬張っているのを尻目に、2人は砂まみれで立ち上がった。緩やかなパンチの応酬。たまにゆっくりと当たったり、たまにゆっくりと空を切る。同時にパンチを繰り出し、同時に空振る。そのまま、拳と拳が空中ですれ違い、なにもない空間でカスッと音がする。トモヤが間に割って入る。
「もう、やめましょう!公園でプロレス、やばいですよ!」
だが、2人は止まらない。
「いくぞ!必殺、酔いどれスピン!」
老人が千鳥足で意味不明な回転を始めた。
「ならばこちらは、ソニック・ギター・ウェイブ!」
パークギター・シンヤがギターを構え、一気に轟音を鳴らす。
「ぐあっ!耳があああっ!」
老人は耳を押さえて転げ回る。だが、ギターの演奏が一段落した時、老人は静かに立ち上がった。
「音、悪くなかったぞ」
「へ?」
パークギター・シンヤは思わず演奏を止めた。
「ちょっとヘンテコだったけど、魂は感じた。つーか、今のリフ、ちょっと泣けた」
「それは・・・ありがとう」
パークギター・シンヤはムーンスター・トモヤの方を振り向いて笑顔になった。先ほどの激闘でメガネがひび割れて、鼻血を垂らしていた。
「ごめんな、ムーンスター・トモヤ。スマホは必ず弁償する。今度、一緒に新しいの選びに行こう」
ムーンスター・トモヤが口を大きく開けて焦点の定まらない目で2人を眺めながら声を絞り出した。
「あれ?仲直りした?」
「素直に謝ったな。えらいぞ」
老人は鼻を鳴らした。
「おまえ、意外といいヤツだな」
「あなたも、まあまあ。面白かったです」
「よし、じゃあ、これで仲直りだ!」
老人はポケットからカチカチになったキャラメルを取り出し、差し出した。
「これ、なんです?」
「友情の証だ」
パークギター・シンヤとムーンスター・トモヤは戸惑いながらキャラメルを受け取った。
「ありがとうございます。・・・化石のような味がします」
パークギター・シンヤが苦悶の表情を浮かべた。
「風味ってやつよ。熟成系な」
3人はしばし沈黙した後、トモヤがぽつりと言った。
「実は、僕の人生、そもそもずっと壊れてたんです。だから、スマホが壊されて、逆にスッキリしました。だって、誰にも連絡することないし、ただ画面を眺めて、他人の人生や、人様の輝かしい世界をのぞき見るだけだったから」
「そうか。まあ、おれも、スマホ持ってないよ」
と老人。
「おれは仕事で使うから、しょうがなく持たされてる。あんなのなくても困らないよ」
とパークギター・シンヤ。
「そうですか。壊れるって、ちょっと気持ちいいですね。なんだかワクワクします。これで前に進める気持ちです」
ムーンスター・トモヤがかすかに微笑んだ。しばらくぼうっとムーンスター・トモヤを見つめていたパークギター・シンヤは、思いついたように老人を指差した。
「爺さん、ひょっとして、楽器できないか?」
その声は夜の静けさを切り裂くように鋭く、冷たい空気の中で息が白く凍りついた。
「ん?・・・ああ。おまえがギターで、こっちの子がドラムか。まあ、ベースなら30年くらい前に、少しかじったことあるな」
しゃがれた声が、夜の空気ににじんだ。その声には過ぎ去った時間の重みが感じられた。すると、先ほどドラムセットを運んできた大柄な男が、どこからともなく黒光りするプレシジョンベースとアンプをかついで現れて、黙って老人に渡す。月明かりに照らされたそのベースは、生き物のように光を反射し、銀色の弦が星のように瞬いていた。
「電話もしてないのに」
ムーンスター・トモヤは、大男の背中を見つめながら、その手際の良さに思わずつぶやいた。冷たい夜気が言葉を包みこみ、ため息のように消えていった。

老人がベースを構えたその時、低く長い音が鳴り響いた。ベースの最低音のような、地鳴りのように響く音だった。その音はベースからではなく、老人の腹から出ていた。公園の空気がその振動で揺れ、木々の葉がかすかに震えた。
「悪い、昼からなにも食ってなくてな」
老人は照れくさそうに頭をかいた。皺だらけの顔に一瞬、困惑の色が浮かんだ。それを聞いていた女がベンチから立ち上がり、なにも言わずにコンビニの袋からおにぎりを一つ取り出し、老人に差し出した。月の光に照らされたそのおにぎりは、不思議と神聖な供物のように見えた。
「食う?」
彼女の問いかけは簡素だったが、その声にはなにかしら温かみがあった。
「ありがとう」
老人は素直にそれを受け取り、ゆっくりとおにぎりの包装を剥がした。その動作は慎重で、貴重な古文書を扱うかのようだった。白い米粒が月明かりに反射して、小さな宝石のように輝いていた。一口食べた瞬間、老人の表情が変わった。堅く閉じていた口元がかすかに緩み、その目には遠い記憶の光が宿った。
「うまい。久しぶりだ、こんな味は」
その声は、どこか遠くから響いてくるようだった。女はさらに袋から缶コーヒーを取り出して老人に手渡した。
「まだ、温かいよ」
その言葉は夜の闇に溶けこむように静かだった。
「ほんとだ。ありがてえ」
老人はそれを一気に飲み干した。喉元を滑り落ち、体の芯から広がる温かさは、忘れていた音楽への情熱をも呼び起こすようだった。
「悪い、世話になった」
老人は空の缶を握りしめながら言った。その握力は若者のように力強く、金属がわずかに歪んだ。
「いいよ」
彼女は軽く肩をすくめた。その仕草は月明かりの下で流れるような優雅さを持っていた。
「演奏聴かせてくれるんでしょ?」
老人はじっと女を見つめ、静かにうなずいた。その目には、かつて失われたと思っていた炎が再び燃えはじめていた。彼はベースを手に取り、試すように一音鳴らした。その瞬間、公園の空気がピリッと張り詰めたように感じた。老人はそのまま静かに弾き続けた。乾いた音が夜の静寂をかすかに震わせた。その低音は大地を伝わり、地面から足の裏を通して体全体に染み渡るようだった。
「・・・マジか?天才かよ。なんだ?その音」
「知らないのか?これはな、ベースっていうんだよ」
老人の口から漏れた言葉は、かすかに冗談めいた調子を帯びていた。しゃがれた声と裏腹に、彼の指は若々しく弦の上を舞った。食事の力か、それともなにか別の力が働いたのか、その演奏には生命力が宿っていた。
「あんたのベースの弾き方、底知れねぇな」
とギターパーク・シンヤが唖然とする。彼の顔には驚きと畏敬の念が入り混じり、額に浮かんだ汗が街灯の光を受けて輝いていた。
「まるで深い井戸の底から響いてくるような・・」
とムーンスター・トモヤ。彼の言葉は夜の闇に溶けこむように小さく、それでいて確かな存在感を持っていた。パークギター・シンヤが腕組みしながら考える。
「そうだなあ・・・よし、今日からあんたは、古井戸ミチルだ。表面は静かだけど、底ではなんか古くて強いものが渦巻いて。まだ、枯れてない。そんな感じ」
パークギター・シンヤの声には、なにかを見出した時の独特の高揚感があった。月の光が彼の輪郭を銀色に縁取り、その姿を一瞬だけ神々しく見せた。ベースの老人は無表情のまま黙っていたが、やがて静かにうなずいた。その動きは緩慢で、水中でゆっくりと手を振るかのようだった。
「古井戸ミチルか・・・まあ、好きにしろ」
彼の声は深い洞窟から聞こえてくるような響きを持っていた。
「よし。始めよう」
パークギター・シンヤが地面に落ちていた褪せたジャケットを拾いあげて身につけ、2人を見つめて大声で笑った。その笑い声は公園の冷たい空気を震わせ、遠くの木々を揺らすようだった。ベースが唸り、ギターが鳴る。ムーンスター・トモヤは状況が全く飲みこめないまま渡されたスティックをぎこちなく握りしめ、手を動かしてみた。その指は冷気で少し震え、不安定にドラムを叩いていた。オモチャの太鼓を叩く子供のように、頼りない音しか出せない。それでも、時折、ベースの音に引っ張られるように、それらしいリズムの断片が生まれるのが不思議だった。偶然の産物なのか、それともなにか目に見えない力が彼の手を導いているのか。
「今夜だけだぞ、こんな無茶苦茶なセッションは」
古井戸ミチルは、小さくつぶやいた。その言葉は冷たい風に乗って消えていくようだった。彼の背後では、遠くの街の明かりがぼんやりと瞬き、夜空には見慣れない星座が浮かんでいるようにも見えた。
「それでいい。今夜だけが、おれには必要なんだよ」
パークギター・シンヤの言葉には、どこか切実さがあった。街灯の下で彼の顔に落ちる影が、その表情を一層深く、謎めいたものに見せていた。
「ねえ!そろそろドラムの叩き方を教えてください」
ムーンスター・トモヤは、藁にもすがる思いで2人を交互に見ながら言った。声が少し震えたのは、冷えのせいだけではなかったかもしれない。パークギター・シンヤはムーンスター・トモヤをビシッと指差した。街灯の明かりがパークギター・シンヤの顔を半分だけ照らし、残りの半分は影に沈んでいた。
「いいぞ。おまえは最高だ。おまえの中で最高なんだ。常にやるたびにおまえの中でおまえの限界を突破してきている。おまえは今夜はおまえだけを見てろ。今夜のおまえは、その調子でいけ」
彼の言葉は、夜の闇の中で輝く星のように散らばり、全く意味が分からなかったけれど、なぜか少しだけ勇気づけられた。
「ええ?なんにも知らないんだよ!もう!適当にやるからな!」
ムーンスター・トモヤは、開き直るようにスティックを振り上げた。その動きで小さな風が起こり、近くの草木が揺れた。重く響くベースの音。それに呼応するように、ベースの男の身体が揺れはじめる。彼の指が弦の上を滑るたびに、夜の公園の景色が歪んでいくようだった。木々の影が長く伸び、街灯の光がいつもより明るく感じられる。わけもわからず適当に叩いているはずのドラムも、そのグルーヴに引っぱられるように、不思議なリズムを刻みはじめた。叩くたびに、手のひらにビリビリとした感覚が走る。
「おい!おかしいだろ!好きにやってるのに、なんか叩けてるぞ」
ムーンスター・トモヤは、半ばパニックになりながら叫んだ。その声は夜の空に吸いこまれるように消えていった。
「音楽だから、そりゃそうだろ」
古井戸ミチルは、涼しい顔で言った。その間も、あの女性はひたすらコンビニとベンチの間を往復し、底なしの胃袋を持っているかのように、途切れることなくなにかを口に運び続けていた。彼女の歩行と食事は不思議と音楽のビートに合っているように見え、ビニール袋が風に揺れる音さえもリズムの一部のようだった。
