
第四章「夜の演奏」
歌い終えたカナルフロウ・ナミの頬を、夜風が冷たく撫でた。張り詰めていたなにかがふっと緩み、周囲の静けさがじわりと染み渡る。公園の街灯だけが、所在なげに足元を照らしていた。
「・・・なんか、こういうの、気持ち悪くない?」
カナルフロウ・ナミの声は吐息のようだった。コンビニのビニール袋を握りしめた指先が、かすかに震えている。丸みを帯びた頬は、さっきまでの熱気を帯びた紅潮が引いて、どこか寂しげに見えた。大きな瞳が不安げに揺れている。誰もその言葉を否定しなかった。運河の向こうにそびえ立つ団地の無数の窓は無言の傍観者のようだった。工場の無機質なシルエットが、夜空に黒く浮かび上がっている。
「なんか、私たち、何者でもないのに、いい感じっぽいことして、勝手に満足してるだけっていうか」
パークギター・シンヤは、爪弾いていたギターのネックをゆっくりと握り直した。顎のラインは少し険しく、深く刻まれた目尻の皺が、彼の複雑な心境を物語っているようだった。
「うん。そうだな。本当にそう思う」
彼の声は低く、かすれていた。コンビニで買ったであろう安い煙草に火をつけ、紫煙をゆっくりと夜空に吐き出した。その煙は、公園の湿った空気の中に、一瞬で消えていった。みんな、しばらく黙ったままだった。それぞれの心の中に、言葉にならない感情が渦巻いているようだった。遠くで、貨物列車の通り過ぎる音が、かすかに聞こえた。
突然、古井戸ミチルが低い音を奏ではじめた。その音が、運河の水面を伝わるように広がっていく。月明かりに照らされた水面が、その振動に呼応するようにかすかに揺れはじめた。遊具の影は、ベースの音に合わせて少しずつ形を変えていく。さっきまでの不気味な形から、なにか懐かしい物の輪郭へと変容していくようだった。
「なんとなく。弾きたくなった」
古井戸ミチルはそう言って、もう一度弦を爪弾いた。埋立地の記憶を呼び覚ますかのように、その音は地面から立ちのぼる湿気と混ざり合った。スターダスト・ドライバーが、その音に重ねるように、かすかな電子音を紡ぎはじめる。運河の向こうの工場地帯のキラキラとした明かりと響き合い、冷たい金属音が温かみを帯びていく。
「こんな感じだったかな・・・」
スターダスト・ドライバーの音は、昔の記憶を手繰り寄せるようだった。彼の指が鍵盤の上を滑るたび、団地の暗い窓のいくつかに呼応するように明かりが灯るように見えた。
「それ、いいじゃん」
パークギター・シンヤがそう言って、静かに演奏に加わった。彼の奏でるメロディは、夜風に乗って公園全体を包みこんでいく。遊具のシルエットが、その音に合わせて揺れ動いているように思えた。月明かりがより鮮明になり、運河の水面に映った月の姿が、彼らの演奏を聴いているかのように輝きを増していく。スターダスト・ドライバーとパークギター・シンヤと古井戸ミチルが演奏しながらムーンスター・トモヤをじっと見つめ続ける。ムーンスター・トモヤはコンクリートの地面に置いていたドラムスティックを慌てて手に取った。最初はためらいがちに、やがて確かな手つきでリズムを刻みはじめる。そのリズムは公園の隅々まで広がり、埋立地の地層に眠る記憶を呼び起こすようだった。かつてここにあった海の記憶。埋め立てられる前の波の音。工場が建つ前の空の広さ。団地が建つ前の風の通り道。彼のドラムの音に合わせて、公園を囲む街灯の明かりが少し明るくなったように感じた。それは錯覚かもしれないが、彼らの周りだけ、夜の闇が少し後退したようにも見えた。そしてカナルフロウ・ナミが、小さな声で歌いはじめた。
冷たすぎる夜風 ああ お得意の無視だね
歌い終わりの熱 冷めて当然だろ こんな場所
街灯だけが頼り 笑わせるよ その嘘
世界に取り残された 別に 慣れてるけどね
コンビニの袋 ああ 現実の重さ
さっきまでの高揚 幻だったみたいね
心に空いた穴 埋めるフリだけしてる
団地の窓 無関心なギャラリー
なんか変じゃない? 気づいてるくせに
何者でもない 音くらい出せるわ
自己満足 そうよ でも誰に迷惑かけた?
不安 馴染みの古傷
この場所の過去 興味ないフリして
埋められた記憶 勝手に眠ってろ
今の音 現実逃避でしょ
それでも かすかに光るものがあるって?
嘘つき
その歌声は、月明かりの中に溶けこんでいく。彼女の声が高まるにつれ、運河に面したベンチの冷たい感触が少しずつ和らいでいくのを感じた。彼女の歌は、団地の暗い窓に向かって放たれる、小さな光の矢のようだった。5人の演奏が一つになった時、公園の景色が少しずつ変わりはじめた。月明かりはより強く、より優しく彼らを照らし、遊具の影は不気味さを失い、子供たちの笑い声の記憶を宿したシルエットへと変わっていた。運河の水面は、彼らの音楽の波紋を映し出し、輝く水面は昼間の賑わいを思い起こさせた。団地の窓には、少しずつ明かりが灯りはじめ、彼らの演奏に耳を傾ける人々がいるかのようだった。無機質で冷たかった工場地帯のシルエットは、どこか懐かしい温もりを帯びたランドマークへと変貌していく。ベースの低音が地面を震わせるたび、埋立地の土の中から、かつてここにあった海の記憶が呼び覚まされるようだった。シンセサイザーの電子音は、工場地帯の明かりと共鳴し、現代の音と光の交響曲を奏でる。ギターの旋律は夜風と一体になり、公園の隅々まで行き渡る。ドラムのリズムは、この場所の時間を刻み直すかのようだった。過去と現在、昼と夜、喧騒と静寂、それらが混ざり合い、新しい時間の流れを生み出していく。カナルフロウ・ナミの歌声は、全てを包みこみ、結びつけていく。彼女の声が高まるにつれて、公園はかつての海へ、団地は波の上に浮かぶ船へ、工場は輝く灯台へと、幻想的に姿を変えていくようだった。彼らの音楽が最も高まったとき、埋立地に造られた公園は、もはや昼でも夜でもなく、過去でも現在でもなく、現実でも幻想でもない、全く新しい場所へと変容していた。そして、音楽が静かに終わりを告げるとき、公園はゆっくりと元の姿に戻っていく。しかし、なにかが確かに変わっていた。同じ月明かり、同じ運河、同じ遊具の影、同じ団地の窓、同じ工場のシルエット。それでも、彼らにはもう、さっきまでとは違って見えていた。
彼らの音楽が、この場所に新しい記憶を刻んだのだ。

音楽が途絶えてから、どれくらいの時間が経っただろうか。デジタル時計の無機質な数字だけが、容赦なく時を刻んでいた。カナルフロウ・ナミがスナック菓子を頬張りながら、小さく自嘲気味に笑った。その表情は、どこか諦めにも似ていた。
「たぶん明日、後悔すると思う」
「なんで?」
ムーンスター・トモヤは、握りしめていたドラムスティックをわずかに動かしながら、思わずたずねた。コンビニの袋からのぞく、カラフルなスナック菓子のパッケージが、やけに目に飛びこんでくる。
「なんとなく楽しかったって思っちゃうとさ、明日、部屋で1人になった時、すごい虚しくなるんだよ。なんで続かなかったんだろ、とか、あれは幻だった、とか」
カナルフロウ・ナミの話を聞きながら、パークギター・シンヤは煙草の先を見つめながら、深くうなずいた。彼の着ている褪せた色のジャケットは、夜露に少し湿っているようだった。
「あるある。おれもずっとそんな感じ。ライブの後とか、打ち上げの後の深夜とか。帰ったら一気にくる。あのテンション、なんだったんだ?って」
「私、アルバイトもサボってきたんだけどさ、明日絶対怒られるし」
カナルフロウ・ナミはぶっきらぼうに言った。その指先は少し赤くなっていた。
「今日の分、帳消しになるくらいには怒られると思う」
それを聞きながら、古井戸ミチルは古びたベースギターを抱えたまま、静かに運河の水面を見つめていた。彼の表情は読み取れなかった。
ムーンスター・トモヤは、ゆっくりとスティックをコンクリートの地面に置いた。乾いた音が、静かな公園に小さく響いた。
「明日が来るの、なんか、怖いな」
ぽつんと、心の奥底から零れ落ちた言葉だった。スウェットの袖口を握りしめた指先が、少し震えている。パークギター・シンヤは、短く笑って答えた。
「来なくても困るけどな。でも、来るよ。ちゃんと嫌な感じで」
「だよな」
と古井戸ミチルが笑う。それでも、誰も立ち上がろうとはしなかった。それぞれの心に、まだこの瞬間の温もりが残っているようだった。運河の静かな水面が、彼らの姿を揺らめきながら映し出している。
スターダスト・ドライバーは、煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら、遠い目をしていた。彼の着ているヨレたジャケットの肩には、白い何かの跡が付いている。
「おれ、娘とぜんぜん話せてないんだよな。帰ってもたぶん寝てるし、起きてても、目合わせてもらえない」
彼は、諦めたような、それでいてどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「でも、さっきの音、たぶんあいつが小さいころ好きだったメロディに似てた気がする」
誰も、その言葉にはなにも返せなかった。スターダスト・ドライバーはスマホを取り出して、娘の写真を見つめた。春の夜の冷たい空気が、静かに彼らの間を吹き抜けていく。運河の水面に映る月の姿は、さっきよりも淡く、はかなげに見えた。カナルフロウ・ナミがスターダスト・ドライバーに近づいて、スマホの画面をのぞく。女の子がミッキーマウスの帽子をかぶってポップコーンを食べている。
「可愛いですね。何歳ですか?」
「もう高校生だ」
「え?幼く見えるね」
パークギター・シンヤが大声を出した。
「見りゃわかるだろ?娘さんが小さい時の写真だろ」
と古井戸ミチルも後ろからスマホをのぞき、かすかに笑う。
「今じゃ、写真も撮らせてくれないよ」
スターダスト・ドライバーが悲し気に笑う。
「すこし、なんだか、どんなメロディだったんでしょう。娘さんが小さいころに、好きだったメロディに、近づけてみたいかもですね」
ムーンスター・トモヤがドラムスティックを拾い、ドラムセットに座る。ギターが、かすかに、爪弾かれた。途切れた会話をもう一度始めるかのように。それに呼応するように、ドラムが静かにリズムを刻みはじめた。ベースの低い音が、それを優しく包みこむ。シンガーの不安定な声が、なにかをささやきかけ、シンセサイザーの奏でる電子音が、かすかな光を灯す。
過ぎる時間 ただそれだけが確かでも
昔は遠くても 今この瞬間は近い
埋められた記憶 一緒に掘り返そう
ベースの低い音 響き合うのを感じる
運河の波紋 広がる私たちの音
遊具の影 伸びて重なり合う
忘れかけた風景 共に思い出している
冷たかった金属音 温もりを帯びてきた
こんな感じだったね そう 覚えてる
意味なんて探さなくていい
遠い日のメロディ 今ここで溶け合って
私たちの歌 少しずつ染みこんでいく
団地の灯り 私たちを見守っている
それぞれの物語 今夜だけは共有できる
この夜の演奏 かすかな光になって
過ぎる時間 緩やかに流れていく
この場所の過去 今日から未来になる
埋められた記憶 一緒に目覚めていく
今の音 これが私たちの現実
すこし なんだか 共に光っている
今度の演奏は、さっきよりも静かで、より内側に向かっているようだった。派手な景色の変化はなく、ただ彼らの心の中に、なにかが静かに芽生え、育っていくようだった。埋立地に造られた公園は、今、彼らだけの場所に変わっていた。月明かりは彼らを見守るように柔らかく照らし、運河の水面は彼らの音楽を映し出す鏡となり、団地の窓と工場のシルエットは、彼らの物語の証人となっていた。誰もその音を止めようとはしなかった。それは、夜明け前の訪れのようだった。言葉を交わすように、呼吸をするように、かすかに笑いあうように、互いを慰めあうように、演奏は静かに続いた。
夜が白みはじめる頃、彼らはなにも言わず、1人、また1人と、静かに立ち去っていった。
誰かが、小さく「またな」と言った。その声は、夜明け前の空気の中に溶けこみ、誰に届いたのかも分からなかった。
きっと、そこにいた全員に。
そして、きっと、誰にも。
