
映画評「パリ、テキサス」(1984年/フランス・ドイツ)
1984年/フランス・ドイツ/147分 監督:ヴィム・ヴェンダース 音楽:ライ・クーダー 撮影:ロビー・ミューラー 出演:ハリー・ディーン・スタントン/ナスターシャ・キンスキー/ディーン・ストックウェル
147分があっという間である。「どこへ行きたい?何がある?何もないだろ」たしかに何もない場所だ。酸素が薄いような気がする。息もできそうにない。アメリカの、地球規模の広大な土地。まず、その風景に圧倒される。全ての男の進む先には不毛の大地しか残されていない気もするし、「何もないだろ」と、向かう先を否定されても、悲しい気分になる。冒頭の25分間、主人公が全くしゃべらない点に興味を持つ。主人公の心の流れをわざわざ説明しようとせずに、ただ、あるべきものとして扱う。そもそも主人公自身も自分の心をわかっていないかもしれない。これも一つの描き方だろう。広大な人間の心が、荒野を突き進んでいく。私にとっては心の中も、アメリカも、未踏の地なので、見慣れぬ景色も多く、非常に有意義な旅の気分を味わえた。場所だけではなく、とても長い時間を主人公は旅している。たどり着こうと思っても、どこまで歩こうとしても、絶対に過去にはたどり着けない。宇宙の生成や光速の時の流れで証明できるように、時間というものは絶対で、過去には流れない。「どうしてもダメなんだ。何が起こったのかも思い出せない。空白が空白のまま。孤独に輪をかけ。傷はいっそう治らない」目指すは、ただただ荒野である。それが人生なのかもしれない。雄大な景色を大画面にたっぷりと描くことで、逆にそこに住む小さな人間同士の心の絆が心に迫る。誰もが本当にいるのではないか、そして実際に自然にこういうしぐさをするのではないか。演出過多にならないで、ありのままの映し方をしているせいで、どの人物にも共感できた。8ミリの上映会で親子の距離が近づくのは素晴らしいシーンだ。どちらも彼女を失ってしまった悲しさを背負って生きている。妻を見る視線に愛情を感じ取ったことで父として信用される。そこには時間軸もない。背負っている者同士の共感がある。背を向けて電話で話すシーンは、見ていて涙が出てくる。向こうが見えないことに同情して自然に背を向けたようにも見えるが、実際はもっと深い。結局のところ、実際に会える存在ではないのだ。遠くに行ってしまった関係なのだ。時間も場所も意味をなさない2人しか存在しない空間だ。そこでようやく自分の存在をありのままに語る。説明する。そこではお互いが理解しあえて、お互いを愛しているのかもしれない。だが、店から出るともしかしたら同じことを繰り返すのかもしれない。女性が近づく。近づいたせいで女性の顔の部分が暗くなり、自分の顔を映す。彼女に会いに行く旅は、自分に出会える旅でもあった。別に誰もが、今すぐに死ぬわけでもない。ただただ荒野を目指して生きていくだけである。しかし、誰もが優しさを持っているような気がする。優しくあるべきだと思われる。そこには望みがないだろうか。子供を抱き上げる彼女の姿はとても重要なシーンだ。車が走るカットと同じような感じで横からカメラが捉える。長いロードの終着点となる。これがあるだけで私としては救われた気分になった。子供はもはや大きくなったので、母を助けることもあるだろう。圧倒的にハッピーエンドだ。セリフも少なく、短いシーンだが、豊かな感情が表現されている。実際に演じる側に立つと、これは難しい演技だ。これを完璧にこなした彼女の演技力には感嘆する。「傷はいっそう治らない」」一生消えることのない、修復しようのない傷は、人生においてたしかに存在しているような気がする。この映画ではドラマチックに描かれないし、カメラで上手に表現しきれていないし、落ち込みかたも酒を飲み過ぎるようなありきたりのものだ。手紙という媒体で表現している部分も映画として弱いところだ。シナリオ的に重大な曲面が訪れてもそれまでと同じように演出過多にはしない。それまでの長い長い旅の描写で、見た目以上の心の流れを表現している。巨大な風景が、最後に絶望と孤独となって私に押し寄せてきた。あまりに広大なものが描かれ続けていると、孤独がさらに明確になる。歴史や自然と一体化した孤独だ。主人公の行動も、自然に感じた。嘘がない。納得できる。空が青いように、自然そのものだ。風のようだ。風は大地を流れるだけで、潤すことはない。風はなにかを育てることはない。風は居場所を持たない。葉のように、花のように、風はなにかを飛ばすことができる。この大陸で、風が吹いて、なにかが動いた。それをみんなで確認するのがこの映画だ。少なくとも、優しい風が吹いた気がする。