第一章「深夜、話しかけた」

23時を過ぎていた。窓から漏れる月明かりが天井にかすかな影を落としている中、彼は何度も寝返りを打っていたが、頭の中は冴えわたったままだった。彼は身を起こした。スウェットのままで外出することにした。どうせ誰とも会わないのだから。引きこもりになって一年が過ぎていた。夜の散歩だけが、唯一の外界との接触機会。人の気配が苦手でありながらも、時折、外の空気に触れたくなる。両親を起こさぬように静かに重い扉を開ける。階段を下りていく足音だけが、静寂を破った。マンションを出ると、冷たい夜気が頬を撫でた。春一番は来たはずなのに、とても寒い。街灯の下に伸びる自分の影が、妙に長く感じられた。行き先は決まっていた。いつもの公園だ。信号を渡り、オフィス街を通り過ぎて公園の手前にあるコンビニに入る。蛍光灯の光がまぶしい。店の奥では、すらりとした姿の女性が立っていた。いつも公園で見かける顔だった。長い黒髪が背中に流れ、華奢な肩のラインが薄手のブラウスから透けて見えた。スイーツコーナーの商品を物思いに沈むように見つめていた。彼女の横顔には、はかなさがあり、月明かりに照らされた彫刻のように美しく見えた。視線が合ったが、お互いになにも言わずに目をそらした。彼女は真剣な表情でケーキ、プリン、シュークリーム、アイスクリーム、チョコレート菓子などを次々とカゴに入れていく。その量は明らかに一人分を超えていた。彼女はチルドのスイーツコーナーへ移動し、パンケーキ、ティラミス、ロールケーキも加えた。さらにパン売り場で菓子パンをいくつも選び、ジュースやミルクティーなどの飲料も数本手に取っていた。彼は温かい缶コーヒーだけを手に取り、レジに向かう。レジの女性は無表情だった。
「いつもありがとう」
と心の中で声をかけた。どうしても話しかけることはできなかった。

埋立地に造られた公園は、昼間は休憩中のサラリーマンと、子供たちの声で賑わうが、この時間は誰もいない。遊具の影が月明かりで長く伸び、不気味な形を作っていた。お気に入りのベンチは、運河に面した場所にある。腰を下ろすと、冷たい金属の感触が背中を通り抜けた。目の前の運河の水面が月を映し、かすかに揺れていた。その向こうには大きな団地が立ち並び、無数の窓のほとんどは暗く、ところどころだけ明かりが灯っていた。さらにその向こうにはキラキラと輝く工場地帯。巨大な煙突と倉庫群のシルエットが、夜空に浮かび上がっていた。缶コーヒーのプルタブを開ける音が、静寂の中で妙に大きく響いた。温かい液体が喉を通り、少しだけ体が温まる。深呼吸をして、夜の空気を肺いっぱいに吸いこんだ。

しばらくすると、さっきのコンビニで見かけた女性が、大きなビニール袋を2つ持ちながら公園に入ってきて、少し離れたベンチに腰掛けた。彼女は月明かりに照らされ、その華奢な姿はさらに幻想的に映えていた。細い足首、なだらかな首筋、うつむいた横顔のライン。全てが洗練された美しさを持っていた。彼女は袋からケーキを取り出した。プラスチックの容器を開け、スプーンも使わず、直接手でつかんで口に運んだ。クリームやスポンジが指から溢れ落ちるのも気にせず、無表情で一気に頬張る。呼吸をするのも忘れているかのように、黙々と食べ続けた。

その時、向こうから静かなギターの音が聞こえてきた。公園の端にある街灯の下で、一人の男がギターを弾いていた。40代くらいか。白髪混じりの髪の毛を七三に分け、メガネをかけ、白いワイシャツに褪せた色のジャケットに、スラックスを身につけていた。本来なら昼間見かけるタイプの風貌だった。小さなアンプに繋いだエレキギターを、丁寧に鳴らしていた。

音色に耳を傾けると、単なる練習ではないことがわかった。上手い、と彼は思った。ただの上手さじゃない。音に癖がある。深い。そういえば、昨日もいた気がした。一昨日も。1週間前から毎日いた気もする。でも、いつもとなにかが違っていた。たぶん、彼の腕が上達したのか。それともそんな雰囲気だったのか。無意識のうちに体が前のめりになり、音に聴き入っていた。気づくと、手が勝手に動いて拍手していた。
「すこし、なんだか。いい演奏ですね」
声が出ていた。自分でも驚いた。一年以上、知らない人と話すことなんてなかったのに。男が顔を上げた。街灯に照らされた顔には、疲れとなにかの影が混ざっていた。目の下のクマが深い。
「・・・こんな時間に?」
彼は少し驚いたように笑った。その笑顔には温かみがあった。
「あ、あ。ぼ、僕は、寝れなかっただけ」
自分の声が小さく震えていることに気づいた。
「青年は、学生さんかい?」
「大学を。休学してて、自宅待機してます。昼間が怖くなって」
「昼間が、怖いのか。そうだなあ。おじさんも、昼間は少し怖い時あるなあ」
ポロロロロォォオオオォン。ギターが聴いたことのないフレーズを奏でた。
「おじさんは、怖くない?」
男が真顔でたずねた。
「怖くないです。え?どうしてですか?」
「こんな夜中に、おじさんが1人でギター弾いていて。見た感じヤバいのに。よく声かけたね」
たしかに、昼間なら絶対に近づかないだろう。でも、夜の闇の中では、音だけが存在していたような気がした。
「ああ。そういえば。もう1年以上、家族以外と、しゃべったことなかった。なんでしょう。たしかに、僕は全ての人類が怖いです。僕は音楽に話しかけたのかもしれません」
思ったことをそのまま口にしてしまった。
「お、おお、おおおおお。音楽に、話しかけた?」
男の表情が変わった。メガネの奥の細い目が大きく見開かれ、背筋が伸びる。彼の中で、なにかが変わってきたようだった。
「おまえは、おれの音楽、どうだった?」
彼の声が熱を帯びていた。
「え?だから、いい音楽ですねって。ファンになりました」
それを聞くと、男の瞳から大量の涙がこぼれ落ちた。街灯に照らされて、その涙が光の線を描いている。彼は戸惑ったが、そこには本物の感情があった。
「そうか。おれの音楽の、初めての理解者だ。それを記念して、名付け親になってくれ。おれを、これからなんて呼びたい?」
「え?あなたの、名前を決めるってことですか?」
「そうだ。おれは、これから、新たな自分に、名前をつけることにしたんだ」
「え?じゃあ。・・・深夜の公園のギターの人」
「シンヤ、パーク、ギター。そうか、ありがとう。今日からおれの名は、パークギター・シンヤにするよ。よろしく」
パークギター・シンヤが手を差し出した。2人は握手をした。パークギター・シンヤの指はかなり硬くてガサガサしていた。

ケーキを食べていた女性がこちらを一瞥した。彼女は月明かりに照らされ、その横顔がくっきりと浮かび上がっていた。すらりとした指先で唇の端に付いたクリームを拭うと、舞うよう優雅に立ち上がった。彼女はビニール袋を持って暗闇の向こうに消えていった。

それ以上の会話はなかった。パークギター・シンヤはまたギターを弾きはじめた。静かで、なにかを探すようなメロディ。弾いている本人も、迷っているように見えた。月明かりに照らされた彼の指が、弦の上を行き来する。自分きっかけで、他人が流す大量の涙。心が動揺していた。
「プロなんですか?」
思わず聞いた。公園の静けさを破る自分の声が、不思議に感じられた。
「いや。ただ、昔馴染みとバンドを組んで、好きな時に演奏してただけだ」
パークギター・シンヤは自嘲するように笑った。その笑顔の奥に、言葉にできない後悔のようなものが見え隠れしていた。
「バンドもやめた。ライブもやめた。路上ライブをしても、誰も立ち止まらない。1年くらい、曲が書けない。作るってことが、分からなくなってる」
彼の声は低く、運河の水面のように揺れていた。公園の木々が風に揺れ、葉のざわめきが彼の声に重なった。
「そうですか」
返す言葉が見つからなかった。
「でも、家で悩んでるより、ここで音出してる方が、まだマシなんだよね。意味ないけど」
意味がない。その言葉が、妙に刺さった。風が強くなり、髪が目元にかかった。それを払いのける手が、少し震えていた。
「僕も、なんとなく生きているだけです。意味は、いつもないです」
それを聞くと、パークギター・シンヤはちょっと驚いた顔をした。月明かりに照らされた顔が、柔らかい影を作っている。そして、ゆっくりうなずいた。その表情には、なにかを見つけたような安堵があった。
「おまえも、名乗ってみないか?お礼に名前をつけてあげよう」
「え?パークギター・シンヤみたいなやつですか?」
「うん。月が綺麗だから。ムーンスター・トモヤ。おまえは今日からムーンスター・トモヤだ」
「ムーンスター・トモヤ・・・。トモヤって、どこから取ってきたんですか?」
「なんとなく。ムーンといえばキース・ムーンだ。おまえは、ドラム、叩けるか?」
突然の質問に、困惑した。
「叩けないよ」
「やってみたくないか?おじさんには、伴奏が必要だ」
「おじさんみたいにうまくできないよ」
「いや、下手な方がいいんだ。むしろ下手であれ。一緒に演奏している人が下手だと、おれの自信になるから」
パークギター・シンヤは真剣な顔で言った。手にしたギターを優しく撫でながら。
「どこで叩くんですか?エアドラムですか」
それを聞くと、パークギター・シンヤはポケットから携帯電話を取り出して、誰かに電話をかけはじめた。
「・・・そうだ。うん。この場所はわかるか?・・・うん。そう。・・・ドラムセットが必要だ。簡単なやつでいい。今すぐ持ってこい」
彼は電話で命令口調で話していた。

その時、先ほど公園を出て行った女性が戻ってきた。彼女の手には、2つのビニール袋が下がっていた。彼女は再び同じベンチに座り、新しい袋を開けた。中からはおにぎり、サンドイッチ、弁当など、より食事らしいものが出てきた。彼女は先ほどのスイーツを食べるのと同じように、無表情で手づかみし、大きく口を開けて食べ物を押しこんだ。おにぎりの海苔が唇についても、ご飯粒が頬に付着しても、気にする様子はない。ただ食べる。そして飲みこむ。サンドイッチは一口で半分を平らげ、ペットボトルのお茶で流しこんだ。

十分もしないうちに黒塗りの大型トラックが公園の入り口に停まった。月明かりの中、大柄な男がトレーラーのコンテナを開けて中に入り、重そうなドラムパーツをかついで降りてきた。シンバルやスネアドラムやバスドラムなど、様々な機材を1人で公園に運びはじめた。街灯に照らされた機材の金属部分が、冷たく光っている。
「え?あの人、誰ですか?」
驚いてたずねると、パークギター・シンヤは答えなかった。

袋が空になると、女性は立ち上がり、残りの袋を手に取り、また公園を出て行った。彼女の足取りは軽く、これだけ大量の食事をしたとは思えないほど優雅だった。月明かりが彼女の後ろ姿を照らし出し、長い黒髪が風に揺れる。彼女の姿が視界から消えるまで、ムーンスター・トモヤとパークギター・シンヤは無言で見送った。何往復かして、ついにドラムセットが完成した。公園の一角に、本格的なドラムセットが月明かりに照らされて立っていた。不思議な光景だった。
「よし。叩いてみて」
パークギター・シンヤに促され、おそるおそる椅子に座った。ドラムスティックを握りしめて、硬直。しばらくして、ムーンスター・トモヤはスマホを取り出してYouTubeでドラムの叩き方を検索してみた。

その瞬間、パークギター・シンヤが素早い動きでスマホを奪い取った。そして、スマホを地面に叩きつけた。ガラスが壮大にヒビ割れた。さらにギターを逆さまに持ち、頑丈なボディ部分を振り下ろしてスマホに叩きつけた。ガラスの砕ける音が夜の静けさを破り、スマホの画面は細かく粉砕された。しかし一度で満足せず、再びギターを振りかぶり、思いっきり地面に叩きつけた。バッテリーやチップが飛び散り、部品が公園中に散らばった。スマホが破壊される激しい音に、コンビニから戻って歩いていた女性が一瞬動きを止めた。彼女は目を見開き、コンビニ袋を握りしめ、食い入るように見つめていた。
「こんなもので、音楽は、学べないですよ」
パークギター・シンヤは冷静に言った。彼はそれで終わらなかった。散らばったスマホの残骸を足で集め、もう一度ギターで叩きつけた。金属の歪む音が響き、スマホはもはや原形を留めないほどに破壊された。彼はさらに三度、四度と執拗にギターでスマホの残骸を叩き続けた。月明かりに照らされた彼の表情は引きつっていた。パークギター・シンヤはすでに粉々になったスマートフォンの残骸を見つめ、まだ満足していない様子だった。彼は残骸に唾を吐きかけた。
「これでもか」
とつぶやきながら、褪せた色のジャケットを地面に脱ぎ捨てて足を広げて腰を落とし、のけぞるようにギターを振り上げて、全身全霊で振り下ろした。ギターの重いボディが画面の破片に命中すると、それはさらに小さな小さな欠片へと砕け散った。かつてはニュースや写真、思い出を映し出していた液晶は、今や星屑のように地面に散りばめられている。
「まだだ」
次の一撃は、かろうじて形を保っていたバッテリーを直撃した。危険な内部物質が露出しないよう丁寧に作られた保護ケースも、この暴力の前には無力だった。バッテリーは平たく変形し、内部の層が剥き出しになった。周囲に散らばっていたマイクロチップも彼の怒りを免れなかった。一つ一つ、注意深く狙いを定めてはギターのボディで叩き潰していく。精密に設計された集積回路は、今やただの金属粉になり果てていた。この破壊の儀式の間、黒髪の女性は食べ物のことを完全に忘れたようだった。彼女はただパークギター・シンヤの動きに目を奪われていた。彼女の呼吸が速くなり、胸が激しく上下していた。スマホが完全に砕け散ると、彼女は我に返ったように一気に3つの中華まんを口に詰めこみ、興奮を落ち着かせるかのように激しく咀嚼した。口いっぱいになった食べ物を喉に押しこむように飲みこみ、視線を外さずに次のおでんに手を伸ばした。
「もっと細かく」
パークギター・シンヤは地面から最も大きな破片を拾い上げ、近くの石の上に置いた。それからギターを振り落とした。かつては最新技術の結晶だったデバイスがさらに原始的な物質へと還元されていく。シリコン、ガラス、金属、プラスチック。全てが地面の土と草木に混ざり合い、判別できないほどの微粉末になっていった。最後にブーツで何度も何度も踏みつぶし、踏みにじり、スマホは完全に公園と一体化した。
「これで終わりだ」
彼の足元には、もはやスマートフォンだった証拠すら残っていなかった。ただの粉と、キラキラ光る地面があるだけだった。テクノロジーの粋を集めた洗練された機器は、完全に原始的な物質へと還元されたのだ。彼の額から流れる汗が頬を伝い、あごから滴り落ちる。白いワイシャツはもはや白とは言えないほど汗で濡れ、体にぴったりと張り付いている。スラックスのベルト周りまで汗が染みこみ、暗い色のシミができている。乱れた髪の毛は汗で光沢を帯び、いくつかの白髪がより目立つようになった。手でメガネを拭うと、曇ったレンズに指紋が付き、さらに視界が悪くなったようだ。肩で息をしながら、彼は静かにつぶやいた。
「・・・集中しましょう」
パークギター・シンヤは真剣な眼差しで、ムーンスター・トモヤを見つめていた。唖然としていると、近くの植えこみがガサガサと揺れた。野良猫でも出てきたのかと思ったら、人間だった。
「ちょっと待て!人の携帯電話を壊しておいて!そりゃ酷いだろ!」
彼は白く長い髪に無精ひげを生やし、服はくたびれていたが、目は鋭く光っていた。月が雲間に隠れ、公園は一瞬暗くなった。風が木々を揺らし、奇妙な影を地面に落とす。その夜は、予想もしなかった方向に進みはじめていた。​​​​​​​​​​​​​​​​