短編小説「東京影タンゴ倶楽部」5(全5回)

第5章
「あーあ。影の民に戻りたい。あの時はミステリアスで、少し影のある透明感のある肌を持った美少女だったのに。現実に戻っちゃった」
モヤちゃんが不満げにため息をついた。
「私も、あんな論文なんか書くんじゃなかった」
肩を落とすモヤちゃんの目の前で、今にも泣き出しそうな悲しい表情を浮かべ、教授もため息をついた。教授が書き上げた渾身の力作「ヒップホップとタンゴの融合による、都市伝説における影の民の進化」は、結果として彼の命取りとなった。学部長会議の結果、来年から非常勤講師への降格が決まった。
「いいじゃないですか。研究する時間が増えて」
御茶ノ水のいつもの喫茶店。目の前の涼子は、無表情でラテが冷めるのを凝視していた。
「・・・そうだろうか」
「もちろんです。先生の学問的な展開が速すぎて、学会がついていけてないのです。たとえば・・・」
涼子は冷めたラテに視線を落としたまま、静かに語りはじめた。
「縄跳び競技における2次元キャラクターの投影と、高齢者の健康寿命延伸への相関性のメタバース的アプローチ。これはもう、革新的としか言いようがありません。縄跳びというプリミティブな運動と、最先端のメタバース技術、社会問題となっている高齢化社会。この3つを2次元キャラクターという媒介を通して繋ぐという発想は、まさに天才の閃きです。先生以外に誰がこんな斬新な研究テーマを思いつくでしょうか?さらに、イルカの鳴き声における暗号解読と宇宙人とのファーストコンタクトへの応用。まさに人類の未来を切り開く壮大な研究テーマです。イルカの鳴き声という未解明の領域に、宇宙人とのコミュニケーションという人類の夢を重ね合わせる。このスケールの大きさは先生の知的探求心の賜物です。学会の小さな枠に囚われず、常に宇宙規模で思考する先生の姿勢は、本当に尊敬に値します。そして近年では、ブラックホールの蒸発とアイドルグループ解散における共通項についてエントロピー増大の法則からの考察。物理学の難解な概念であるブラックホールと、現代社会の縮図とも言えるアイドルグループの栄枯盛衰。この一見無関係な事象を、エントロピー増大の法則という壮大な視点から結びつける。この深遠な洞察力は、まさに教授が学問の神髄に触れていると言えるでしょう」
教授は黙って聞いていた。涼子の顔は真面目だったが、どうも自分を馬鹿にしているようだ。さらにいえば、そんな研究、教授は身に覚えがない。いったい誰の研究と勘違いしているのだろうか。涼子がついにラテに口をつけた。
「このラテ。冷めて地獄のような味がします」
「冷める前に飲んでみてはどうかな」
どうせ聞き流されるので教授は小声でつぶやく。彼女は飲むのではなく、冷めていくラテを見るのが好きなのだ。モヤちゃんがクリームソーダをすすりながらニンマリと笑う。般教のテストは教授の補講のおかげで無事に終わっていた。
「でも、先生。教授をクビになっても、先生にはタンゴがあるじゃん」
「ううぅぅ・・・」
教授は自分のプライドのため、昨日、社交ダンス教室に行ったことは2人に黙っていた。あれだけの拍手喝采を浴びたのだから、自分には圧倒的なタンゴの才能がある。プロも夢ではないかもしれない。自信満々で体験レッスンで自慢のステップを披露した瞬間、周囲の受講生たちから大爆笑。インストラクターの女性からは
「最初は基本的な動作から始めましょう。まずは、背筋を伸ばして普通に歩くことからですね」
と優しい微笑み。どうやら自分のタンゴは人間世界では通用しない異次元のタンゴだったようだ。悲しい思い出に浸る教授の目の前でモヤちゃんがケラケラ笑う。

「それに、本が売れてるじゃん」
「まあな。なぜあんなものが・・・」
なぜ売れたのか、どこで売れたのか、誰が買っているのか全くわからないが、論文のついでに適当に書いた本を迷宮文庫で出版したら、かなりの額の印税が入ってきたことは事実だった。
「影の民の観測記録 附・影タンゴ入門」
「迷宮文庫の店長がお勧めしてくれてるみたいです」
と涼子が冷めたラテをすする。モヤちゃんが笑う。
「あの本、あちらの界隈じゃ、バカ売れみたいですよ。この際、私たちと一緒に行動して、それを本に書いて、作家になっちゃったらどう?」
「あ、そうだ、先生」
涼子は真剣な表情で教授を見つめた。
「次は、新宿の地下迷宮に住むといわれる虹色のカラスたちの調査に行きませんか?彼らは人間の夢を集めているらしいです。目撃情報によると、虹色のカラスは眠っている人間の額にクチバシを突き刺し、夢を吸い取るらしいです。被害者は夢を全く見なくなり、感情が希薄になって、魂を抜かれたようになるそうです。虹色のカラスたちは、集めた夢をどこかに溜めているそうです」
「夢を吸い取る?そ、それは。・・・なかなか興味深いな」
教授が好奇心に駆られて身を乗り出す。まだチャンスはある。世界を驚かせる圧倒的な論文を書けば再来年こそ教授に返り咲けるはずだ。モヤちゃんが顔と丸メガネをクイッと上げる。
「あっ、そうだ、先生。迷宮文庫の店長に会いたくありません?」
「あ、ああ。できれば、本を売ってくれたお礼をしたいんだが」
「店長も先生に会いたがってました。じゃ、ちょっと今から店長呼んできますね」
モヤちゃんが喫茶店を飛び出していく。
「あっ!モヤちゃん!火曜日はそっちからじゃお店に行けないわよ!」
涼子が慌てて立ち上がり、後を追いかける。先生は学術論文たちと取り残される。前方の席の声が聞こえる。2人の学生が窓際の席に座っていた。
「あのビル、なんか影が動いてるように見えない?」
女子学生が言った。男子学生は外を眺めながら肩をすくめた。
「見えない。でも、あそこでなんかアートプロジェクトをやっているらしいよ。影踊り倶楽部とかいう」
「面白そう!入ってみたい」
女子学生は目を輝かせた。男子学生はコーヒーを飲みながら言った。
「神田に迷宮文庫という古本屋があるらしい。そこで聞けば教えてくれるとか」

教授は御茶ノ水の街を見つめた。輝ける雑踏の中を行き交う様々な光り輝く人々の足元には、当然のように影が寄り添っている。時おり影の中には影の民がいて、気持ちよさそうに踊っている。知り合いの影の民と目が合う。影の民が手を振る。教授は影の民に手を振りかえす。かつては気にも留めなかった日常の風景が、今では特別な意味を持ち彼の目に映る。影の民との出会いは、彼の研究者としての魂に再び火を灯しただけでなく、世界の見方そのものを変えてしまったのだ。ヒップホップとタンゴの融合による、都市伝説における影の民の進化!教授からの転落は痛手だったが、失ったものばかりではない。自分はたしかに、新しい視点と、なによりもかけがえのない友人たちを得たのだから。そして今、新宿の虹色のカラスたちの噂は、彼の探求心を再び刺激していた。未知への好奇心こそ、研究者の原動力だ。教授は小さく息をついた。次はどんな不思議な出会いが待っているのだろうか。彼の心には、新たな研究テーマへの期待と、ほんの少しの寂しさが入り混じっていた。それにしても、迷宮文庫の店長とは、どんな人だろうか。教授は彼女たちを待ったが、いつまで経っても戻ってこない。ようやく気づいた。いつものように会計を1人で払うことに。ふと気づくと、テーブルの上に一枚のカード。
「東京影タンゴ倶楽部、新メンバー募集中。お問い合わせは迷宮文庫まで」
そして、カードの隅には小さな注意書き。
「P.S. 文学部長のカツラは4代目になりました。先代のカツラは、鳥の巣に間違えられて、ヒナに占領されたそうです」
涼子の筆跡だ。そんなことを知りたいんじゃない!教授は慌ててカードの裏をめくる。
「文学部長と同じカツラは迷宮文庫で売られています。店の奥の秘密の扉の中にあります。それを買えば、今後、先生の毛髪は、疑われることはありません」
椅子にもたれて教授は満足気にうなずいた。取引成立だ。